戦場に、入念に打ち合わせる時間などない。膠着状態であっても、はっきりと口にできることは少ない。
「タイミングはこっちに合わせて」
ヨウマはそれだけ言った。
「よしわかった」
キジマの息は荒い。視界もぼやけ始め、真っ直ぐ立っているのも厳しい。だが、親友のために命を賭けることに、躊躇いはなかった。
心臓が脈を打っているのを感じる。それが魂の声だ。残った僅かなケサンを脚に集中させる。一つ、深呼吸。オーサと出会ってからの1週間、常に身体強化術をかけて鍛えてきた。その負荷を超える、細胞の破壊も厭わないほどの強化を今から使うのだ。緊張もする。恐怖もする。だがやる。
やらねばならぬ!
腰を落とし、目標を見据える。一飛びで食らいつける距離。チャンスは一度。
ちらり横を見れば、ヨウマが雷の槍を握っている。呼吸のリズムが不安定だ。ほんの瞬き一つほどの間、目を合わせた。それで全てが通じた。
槍が飛ぶ。見え透いた攻撃を躱したゴーウェントの腹に向かって、キジマが床を蹴る。90キロの重さが、目にも止まらないスピードと合わさって、彼の腹部に突き刺さった。そうしてふらついたところにヨウマが襲い掛かった。
ゴーウェントの右腕を、黒い刃が絶った。しかし、ヨウマもまた、脇腹に防刃ベストを貫通するほどの一撃を食らっていた。血を流す両者。だが、立っていたのはゴーウェントだった。
「劣等種が!」
ゴーウェントが叫ぶ。
「この、この!」
組み付いてきたキジマを振りほどき、倒れたそれを踏みつける。
「畜生、下等存在にこうもやられるとは、老いたものだ、ゴーウェント!」
右腕の断面に左手を当て、ヘッセで傷を塞ぐ。汗が止まらない。
「ガスコ様に知られれば、全く笑いものだぞ」
ぶつぶつと零しながら、左手で落ちたレイピアを拾った。
まさにその瞬間であった。背後から、全身の毛という毛が逆立つような殺気を感じ取った。慌てて振り返れば、今しがた斃したはずのヨウマが立ち上がっていた。
「僕がどんなに傷ついたって、それはいい」
ゴーウェントはゴス・キルモラを用いる。彼の視界には、ヨウマから深海のような濃さの青黒いオーラが放たれているように映った。
「でも、キジマを蹴ったことは許さない。馬鹿にしたこともだ」
「だからなんだというのです! ケサンをそうやって漏れさせて──」
言葉を遮るように、雷の槍が放たれた。頬を掠めていったそれは、どこに消えたかも知れない。
ヨウマは、身体の奥底から湧いてくるケサンの泉に浸っていた。1歩敵に向かう度、床を踏みつける足裏から高揚感がやってくる。全能。彼はそんな存在になったような気でさえいた。
全てがスローモーションに見える。レイピアを構えるゴーウェントも、窓の向こうで落ちる雨も。少し、走り出してみる。
ゴーウェントからすれば、それは反応のしようもない速さだった。気づく余地すらないまま背後に回られ、斬りつけられる。細剣を振り抜くが、すでにヨウマの姿はそこになく、ただ虚しく空を斬った。
では、どこに。上だった。飛び上がっていたヨウマの斬撃を受け止め、2、3歩下がった。
「何を!」
声を発しながら彼は刺突をする。だが、左手で腕を掴まれ、逆に押し返された。左手だ。
(地球人に力負けしている!?)
スパイから聞いた、クリムゾニウムの義手であればそれほどのパワーを発揮したとて不思議ではない。しかし、そうではない。生の腕だ。それで負けている。いくら押し返そうとしても、できない。抵抗も叶わないまま、ゴーウェントは腹を刺された。
(まさか伝説に聞くイニ・ヘリス・パーディ!?)
然るに、ヨウマの呼吸は不規則だった。よろめいたゴーウェントを追いかけて1歩踏み出した彼は、その場でがくりと膝をついた。
「フフ……ハハハ……! やはり劣等種、イニ・ヘリス・パーディかと思ったが、長続きはしないようだな」
ゴーウェントはヨウマを蹴飛ばした。されるがままに転がる彼の目は、確かに決意と怒りに満ちていた。だが、それだけではどうしようもない。現実だ。
「劣等種は劣等種らしく、死ねい!」
動けなくなったヨウマに、彼はレイピアを突き出す。迫りくる銀色の刃。死にたくない──ヨウマがそう願った時、輝ける何かが飛来してレイピアを弾いた。
「セーフ、かな」
グリンサだ。汗をかき、息が上がっていた。だが傷はない。
「ちいっ!」
ゴーウェントは得物を構えなおし、彼女と向き合う。
「ごめんね、扉の封印解くのに時間かかっちゃって」
黒い刀の切っ先が、敵に向けられる。
「じゃ、終わらせよっか」
次の瞬間、二人は斬り結んでいた。二つの刃が何度もぶつかり合う。だが、前に進むのはグリンサの方だった。壁際に追い詰められたゴーウェントは、無駄のない動きから繰り出された突きを横に転がって躱し、すぐさま立ち上がった。
右から、左から、上から、下から。柔軟に太刀を振り回すグリンサを前に、彼はただ受け身になることしかできなかった。そしてついに、そのレイピアが弾き飛ばされて、床に落ちる。壁に背がつく。
「言いなよ、『負けました』って」
黒の刃を喉元に突き付け、彼女は言う。
「殺す覚悟もないと?」
「勘違いしないで。殺せるなら殺したいよ。でも、今はなんでオーサを殺したかを知りたいから生かすだけ」
「たまたま一人でいてくれたから襲ったまでです。劣等種1匹殺すのにたいそうな理由は必要ありません」
劣等種、1匹。そんな言葉が彼女のどす黒い感情を刺激する。だが抑えねば。武器を失った者を殺すのは後味が悪すぎる。
「その劣等種に追い詰められているのは、どうなの?」
「悔しい限りです」
「気に入らないな」
彼女は刀を納める。油断したゴーウェントの腹を殴りつけ、体をくの字に折ったところをひっとらえる。そして、ウェストポーチから取り出した縄で左手と両脚を縛った。
「ヨウマ、キジマくん、立てる?」
「無理かも……」
ヨウマが消え入りそうな声で言う。
「じゃ、ヒトを呼びますか」
「ねえグリンサ」
「何?」
「キジマの帽子は被せたままでお願い。死ぬほど嫌がるから」
「はいはい、わかったよ」
答えつつ、彼女は窓から身を乗り出す。
「終わったよ! 立てないのが二人、腕がないのが一人!」
「承知しました!」
救急隊員が駆けつけたのは、数分後のことだった。
◆
青空に、積乱雲が浮かぶ。小高い丘の上、墓石の前にグリンサはしゃがみ込んでいた。そこには『オーサ』と名前があった。
「仇は討ったよ」
穏やかな表情、静かな声で彼女は告げた。
「中々の腕でさ、利き手じゃなかったらヤバかったかも。でも、ヨウマたちが頑張ってくれたから、勝てたんだ」
傍らには水の入った桶と柄杓。それを取り、水をかけた。
「キジマくん、脚の筋肉が傷ついたって」
濡れた墓石を前に、彼女はぽつりと言う。
「シェーンのヘッセで歩ける程度には治ったみたいだけど、痛みはまだあるみたい」
ペタン、と地面に尻をつける。
「ヨウマもだいぶ無理しちゃったみたいだし、大変だったよ」
ぼんやりと空を見る。目立たない程度にある雲が、向こうにある入道雲を引き立てる。
「おーい!」
声がする。首をもたげれば、ヨウマと覚束ない足取りのキジマが来ていた。彼女は立ち上がって手を振った。
「来たんだ」
傍まで寄ってきたところで彼女は言う。
「グリンサに訊きたいことがあってさ」
「それはいいけど、お墓に挨拶はしてよね」
「あ、そっか」
ヨウマとキジマは墓に向かって一礼した。後者はそれでも帽子を被ったままだった。
「ここじゃ暑いし、車の中で話そうよ」
グリンサの提案を、二人は受け入れた。
長い階段を下って、車内。冷房が効くまでの短い間、3人は溶けそうだった。
「で、訊きたいことって?」
「イニ・ヘリス・パーディって何?」
グリンサの顔は、ヨウマからは見えない。しかし、こっちを向いていれば目をぱちくりさせていただろう。そういう沈黙を彼女はしていた。
「どこで聞いたの?」
「ゴーウェントが言ってた。僕のことをイニ・ヘリス・パーディかと思ったって」
「まあ私もよく知らないけど──」
車が急ブレーキ。飛び出した歩行者を轢殺するところだった。
「ニェーズの伝説に出てくるんだよ、
「でも、あの時の僕は普段より強かったと思う」
「現場を見たわけじゃないからね、私には何も言えないよ。でも……」
「でも?」
「
「いえ、体当たりをしてから気絶してたもので……」
恥じ入る声音でキジマは言った。
「イニ・ヘリス・パーディ、団長なら詳しいこと知ってるかも。今どこかな」
「メッセ送ろうかな」
「顔見せてあげなって。いつ会えなくなるかわからないんだからさ」
「そんなことあるかなあ」
「あるよ。保育園が爆発したりするからね」
ヨウマは何も言い返さなかった。それが何かのトラウマに結びついていることはわかったからだ。無言のままスマートフォンを取り出して、父親に
『会える?』
とだけ送る。すぐに既読がついて、
『会える』
と帰ってきた。
『じゃ、本部で』
『わかった』
スマホをしまう。
「本部で会えるって」
「オッケー。じゃ寄っていくよ」
「ありがとね」
しばらくして、金文字の刻まれた庇の下に立つ。自動ドアを通り抜ければ、またもやジクーレンがどっしりと構えて待っていた。
「何の用だ」
相も変わらぬぶっきらぼうさだった。
「イニ・ヘリス・パーディって知ってる?」
「どこで聞いた」
「ゴーウェントが、僕に向かって言ったんだよ」
「奥で話そう。会議室は使えるな?」
カウンターの向こうの事務に向かって、彼は問う。
「え、ええ。3階の6番なら今日は予定が入ってません」
エレベーター。廊下。扉。どの場面にあっても、ジクーレンは何も言わなかった。付いていったのはヨウマとキジマ。
「キジマも聞くのか?」
「ダチのことですから」
「まあいい」
ジクーレンはどっかりと腰を下ろす。それに倣って、二人も座った。
「イニ・ヘリス・パーディは、強い決意と怒りによって魂自体が強化されることで発生する、突発的な身体強化現象を受けた戦士のことだ」
フンフン、とヨウマが相槌を打つ。
「通常の身体強化術は、魂から生まれるケサンを精神を通じて細胞に送り込むことがその原理だが、イニ・ヘリス・パーディの強化現象は激昂と意志──つまり、精神側の変化によって魂から無理やり潜在的なケサンを引き出すのであり、このケサンを引き出す過程で魂が強化され、それに共鳴するように肉体も強くなる。単なる身体強化術とは原理を異にし、その強化幅も大きい。地球人でもニェーズに匹敵するパワーは生み出せるだろうな」
「つまり、どういうこと?」
ヨウマが問う。
「火事場の馬鹿力、ということだ。しかし誰でもなれるわけではない。精神の要求に応えられる魂がなければ、いくら覚悟をして怒り狂ってもそれ以上のものにはならん。そしてまた、強化に耐えられる強固な肉体も必要だ。ヨウマ、お前にその素質があるのはわかっていた。だが本当になってしまうとはな」
「ほんの少しの間だけどね」
「それは引き出されたケサンがあっという間に流出しきったからだ。一日動けなくなっただろう? 魂という器が空になったんだ」
「確かにそうだけど」
そこで、ジクーレンは深い溜息を吐いた。
「赤子のお前は、この本部の前に捨てられていた。その時ゴス・キルモラで見てみれば、驚いたさ。俺の目にケサンはコールタールのような黒い液体に見える。お前は真っ黒だったよ」
「でもさ、そんなたくさんケサンがあるなら、雷の槍とか熱の剣とかで疲れることはなくない?」
「地球人の体は本来ヘッセを使うようにはできていない。疲労はニェーズ以上に蓄積する」
「それは知ってるけど……」
「イニ・ヘリス・パーディへの覚醒に必要なのは、あくまでポテンシャルだ。どんな存在も、魂に眠るケサンの内50%も使えんとされる。それを強制的に使用するのが、イニ・ヘリス・パーディというわけだ」
「なるほどなあ」
わかっているのかそうでないのかはっきりとしない返事だった。
「しかし、イニ・ヘリス・パーディの力を頻繁に使ってその度にケサンを使い切ってしまえば寿命を削る。ケサンの流出を防ぐ訓練が必要だ」
「何すればいいの?」
「興味があるか?」
「強くなれば、その分恩返しもできるからね」
「──そうか。なら付き合ってやる。行くぞ」
「どこに?」
「訓練場だ」