たまにはヤキモチでも

(いいかげんしっかりしろよ、俺。いくら相手が天敵の辻合だからって)

 望夏を連れて廊下を歩きながら、筧二は心の中で、自分の顔を情けなく両手で覆った。せいかと話す時は昔も今も、妙な緊張が走る。

 弁護士となる試験をパスしたのは、彼女の方が先だった。大学在学中に難関資格を手に入れたのだ。同学年では一人だけの快挙だったし、学校の歴史上でも稀な出来事だった。せいかは入学直後から教授にも一目置かれる、優秀な学生であった。

 当時の筧二は性別関係なく、志を同じくする者として辻合せいかを尊敬した。ただし、10代から彼女はあけっぴろげな性格で、自分とは対照的な人物だと感じていた。せいかは自ら男子やOBに声を掛けることができたし、同性のみならず異性からの人気も高かった。付き合いの浅かった筧二の知り得る範囲でも、恋人が途切れたことがない。筧二が勉強に追われ閉じこもっていると、気晴らしの食事や酒の席に誘ってくれた日もあった。まるで、日光のような存在。

 分け隔たりなく接してくれた思い出が多く感謝している。けれどそうやって過去の映像がふくらんでくる度、筧二は寡黙な己が嫌になる瞬間もたしかにあった。


(目の上のたん瘤)

 現在も第一線で活躍するせいかを、そんな風に思っているのかもしれない。


「どちらまで安城先生。部屋、過ぎてますよっ」

 また、望夏の声で現実に引き戻される。足を止めた筧二がまばたきを繰り返すと、オフィスの出入口を数メートル通り過ぎたところだった。後ろ髪を指でいじり、望夏に促され先に扉を潜る。

 あとから入室して戸を閉めた望夏が、クスッとほほ笑む。

「今日の業務内容でも考えてらしたんですか」

「朝から辻合の熱気にやられた」

「辻合先生、いつでもやる気に満ちてますもんね。私も久々に話せてたのしかったです」

 やれやれだよ。筧二はつぶやいた。デスクにやってきて、腰を下ろした革のイスが音を立てて軋んだ。

 緊張がほぐれたのか、せいかに聞きそびれたことを今更思い出す。

「そういやアイツ、顔合わせてすぐ変な単語使ってたな。渋オジとかなんとか」

 なんだソレって言ってやるつもりでいたのに。意味がわかるか望夏に尋ねた。

 すると彼女はめずらしく尻込みでもするように、視線を左右にさまよわせた。わざわざ後ろを振り向き、扉がきちんと閉まっているかどうか確認している。

「2人だけなんで、もう、呼んでもいいですよね。筧二さん」

 目を合わせた状態で改めて呼ばれると、筧二も胸が逸る。

 望夏は肩を竦めたようだった。そして「ええと」と前置きした上で、解説を始める。

「ご存知ないかもしれませんけど。筧二さんて結構、若い女性の事務員から人気あるんですよ。『渋めのオジサマ』って」

「え」

 筧二は言葉を切り、完全に固まった。寝耳に水だったからだ。

「弁護士の先生ってただでさえカッコイイじゃないですか。そこに加え年上! 髭とメガネ! 落ち着いた雰囲気! オプション盛り合わせになっちゃったら」

 モテないはずないんですよ。言い切りの良さとは裏腹に、望夏は見てわかるほど眉尻を下げている。筧二はたまらず顔の前で、両手を振った。

「待て待て。誤解もいいところだ」

 望夏には打ち明けてあるように、筧二には他人との交際に前向きになれなかった理由がある。

 むしろ、彼女となら余所行きではない己で会話ができ、安心を味わい始めたところだった。

 ひっそりと筧二自身が脚光を浴びていた事実には純粋に驚いている。しかし。

 特別な関係になったはずの望夏本人が、怒りとも悲しみとも判断しがたい空気を漂わせていることに筧二は動悸を覚えていた。

「み……望夏」

(励ますべき場面だよな)

 名前を呼んでみたものの、この先なんと声を掛けるのが正解なのか――筧二が頭を抱えたくなった次の瞬間。

「筧二さん、あの。迷惑でなかったらハンカチを……貸してもらえませんか」

 固い口調とまなざしで言ってのけた望夏の方から、筧二に向け一歩を踏み出してきたのだった。


 彼女がおもむろに寄ってくる間に、言われるがまま、筧二は腰のポケットから薄手の紺色ハンカチを取り出す。

「ハンカチ? 皺が寄ってるけど、いいのかこんなで」

 構いません。望夏が口走る。

 重ねた花びらのような両手で受け取った望夏は布地を見つめると、ゆっくりとした動作で、それを目元に持っていった。

「泣いてるわけじゃ、ないですからね。泣き出したいわけでも。ただこうして、安心したかったんです」

 筧二さんのニオイがする気がする。

 望夏の言葉に胸をうたれた筧二は、静かに息を呑み込んだ。