宋清歌と侍女とは、その後、逃げるように馬車に乗って行ってしまった。が、こちらにはそれを追うことのできる手勢もない。
「まあ、いい。知りたいことはわかった……知りたかった以上のこともな。後の手は、早々に私が打っておこう」
叔父はそう請け負ってくれた。
「入り口はあの娘の色恋に端を発した思いつきと身勝手のようだが……とはいえ、
燎琉よりも、瓔偲よりも、ずっと長く国府に身を置いてきている鵬明は、口許に手を当てて
「宋吏部尚書、万
鵬明が言い、燎琉はうなずいた。
「鵬明さま」
それに口を挟んだのは瓔偲だ。
「なんだ、瓔偲」
「陛下にこのことを訴え出るその際には、殿下とわたしの婚姻の件についても、陛下にご再考をお願いしていただきたいのです」
瓔偲の言葉を聞いて、どこか消沈するように俯きがちになっていた燎琉は、はっと顔を上げた。
まじまじと瓔偲を見る。燎琉の視線を受け、瓔偲は、ふ、と、目を
「殿下とわたしの件は、殿下の故意でないのはもちろんのこと、事故ですらありませんでした。殿下は陥れられただけであって、何の落ち度もない……であれば、わたしのようなお荷物を、殿下が負わされたままである
最後、瓔偲は鵬明のほうを向き直り、深々と頭を下げた。
「それはかまわんが……いいのか?」
鵬明が、ちら、と、気にするように見たのは燎琉だ。燎琉は叔父のうかがうような視線を受け、くちびるを引き結んだ。
瓔偲との婚姻を白紙に戻す。それはもともと、燎琉と瓔偲との最終目標ではあった。
けれども、いまそれが実際に可能かもしれないという段になって、燎琉の心には奇妙な
燎琉はてのひらをきつく握り込んだ。
けれども、と、おもう。皇帝から下された燎琉との婚姻の命がなくなれば、瓔偲は自由になり、あるいは国官にも戻れるのかもしれない――……それならば、瓔偲のためにも、きっと婚姻はなかったことにしたほうがいいのだ。
彼は、国に尽くす官吏たることを強く望み、そして、ようやく二年前にそれを叶えた。燎琉とのことがなければ、いまなお、鵬明のもとで国官として日々を過ごしていたはずなのだ。
それが瓔偲のあるべき姿であり、彼がその生活に戻ることを望んでいるのならば、燎琉の
そのはずだ、それが正しい選択にちがいない、と、けれども
「叔父上から父に……再考を」
眉を顰めながら、かろうじて、ちいさく頷く。
「そうか」
短く応じた叔父は、なぜかこちらに憂わしげな眼差しを向けた。
その後、いったん三人で椒桂殿まで戻り、鵬明とは門前で別れた。
「とりあえず明日、
そう言い置いて去っていく叔父の背中を見送って、その後、燎琉は瓔偲を門の中へと促す。ともに
「今夜は……ひとりにしてください」
すみません、と、俯く相手に、無理強いが出来るはずもなかった。うん、と、頷いて燎琉は引き下がり、こちらもひとり、眠れない夜明かしをした。
*
一夜明けた、次の日の朝である。
「あ……」
意味のない、呻くような声が口からもれる。それで燎琉に気がついたらしい瓔偲が、しずかに視線を持ち上げ、こちらを見た。
「おはようございます、殿下」
彼は丁寧に頭を下げた。
「おは、よう」
昨日の今日で、何をどう言っていいものかわからず、燎琉は相手からわずかに視線をを逸らしながら素っ気なく答えた。
瓔偲はじっと燎琉のほうを見ているようだ。ずっと扉の前に立ち尽くしているわけにもいかず、意を決した燎琉は、
そのまま瓔偲の傍まで歩み寄る。傍近くでうかがい見れば、いつもと変わらずしずかな微笑を浮かべている瓔偲の、その涼やかな目許がわずかに腫れぼったく、赤くなっているのがわかった。
「お前……」
燎琉はつぶやいて、瓔偲の
昨夜はあの後、眠れなかったのだろうか。それとも、彼はひとり、声を殺して泣いていたりしたのだろうか。そう思うと、いま瓔偲が見せている静謐な微笑さえかえってせつなくて、燎琉は眉根を寄せた。
彼が穏やかな笑顔のもとに上手に隠してしまう胸の中、その真情を知りたい。出来ることなら寄り添って、包むように抱き締めてやりたい。燎琉は、ほう、と、息をついた。
そう思いはするのに、うらはらに、瓔偲の心の中へ踏み込んでいいものかどうか、情けなくも、二の足を踏んでいる自分もいた。その臆病が逃げるように
そのまま燎琉が黙っていると、瓔偲は微笑んで、桂花の木を見上げた。
「じきに咲くのでしょうか。よい香りがしたように思って」
黒曜石の眸を瞬きながら、落ち着いた声で言う。
「そうだな」
うなずきを返したとき、ふと、相手がいま髪に挿しているのが、己が贈った白
「これ」
目を瞠って、瓔偲の黒髪のほうへ手を伸べる。
「あ……その」
けれども瓔偲は恥じらうように目を伏せ、燎琉の手から逃れてしまった。
「すみません……
自分の行動に恥入るような表情を見せつつ、白い指で
「その……似合って、る」
くすぐったいような気分に戸惑いつつ、ぼそ、と、言う。すると瓔偲は、はっと顔をあげた。
燎琉をまじまじと見詰め、それから目を細めると、まるで春先に枝についた
「ありがとうございます……殿下の、お選びくださったものですから」
「……うん」
ぼう、と、なりながらそう応じて、けれども燎琉は、いったいあと幾度、彼とここでこういう遣り取りが出来るだろうか、と、そんなことを考えていた。
叔父の
その望みが叶うときには、彼が
いいのか、と、昨日叔父に問いかけられた言葉が、耳の奥に甦って奇妙に反響した気がした。
自分はほんとうに、それでいいと思っているのだろうか――……燎琉はきゅっとくちびるを引き結び、あらためて瓔偲のほうへと手を伸ばす。白百合のほのかに甘い香りに誘われるように彼の頬に手を触れさせ、そっとそこを撫でた。
あたたかい。
やさしい香りがする。
胸が詰まるようにせつなくなって、燎琉は眉をひそめた。
「瓔偲……」
無意識に彼の名を口にすると、まるでそうするのがごく自然であるかのように、瓔偲は燎琉のてのひらに頬を寄せた。それから、血の色の透ける薄い瞼を、ゆっくりと落としてみせる。
あたかもくちづけを待ち望むかのような恰好だ。
燎琉は、ぼう、と、なって、誘われるように瓔偲に顔を寄せた。