「瓔偲は南部、
鵬明は、国府の端にある下級官吏の宿舎へと燎琉を案内しながら、瓔偲についてそんなふうに話を続けた。
「
郷試と省試とをあわせて科挙という。それぞれの地方で、地方官僚や書院・義塾からの推挙などを受けて臨むのが郷試、それに
家柄や身分を問わず官吏登用の道筋をつける科挙制度だが、この試験は、相当に難易度が高いものだった。
その試験に――郷試のみとはいえ――瓔偲は
十八歳といえばいまの燎琉と同じ歳、つまりは成人して科挙の受験資格を得ると同時に、瓔偲は地方試験である卿試に臨んだというわけだ。それだけでも驚くべき才覚だが、それにとどまらず、
一族からひとり進士――科挙に及第して官僚になった者――が出れば、
「だが、皮肉にもその頃になって、あれが第弐性……しかも、発情期をもつ
鵬明は燎琉にそう教えた。
「第弐性のことがわかってからは、通っていた書院もやめさせられ、一族の恥だと言って家の中で軟禁状態。一歩も外には出してもらえなかったらしい。――ああ、ちなみにあれは、地方の小役人の家柄のようだぞ。いかにも古臭い考えを持った、頭の固いやつが集まっていそうじゃないか。まあ、これも偏見かもしれんが」
鵬明は皮肉っぽく口の端を歪めた。
「それなら……瓔偲はどうして、国官に?」
癸性であることがわかり、決まっていたはずの科挙受験の話はなくなってしまった。それのみならず、瓔偲はその後、家に籠められて過ごすことにすらなったらしい。
一歩も家から出してもらえない状況の中から、およそ十年の時を経て、どうしていま彼は
「諦め切れなかったんだとさ」
鵬明が、歩きながらこちらを振り返り、目を細める。
「あいつらしいことだ」
くつりと喉を鳴らして言う叔父の、その口振りからすると、いま鵬明が語るのはまさに瓔偲本人から直接聞いた話なのかもしれなかった。
「いつか官吏に……国官になって、国のため、民のために尽くしたい、と、瓔偲はこれを諦め切れなかったんだそうだ。軟禁されてなお、手に入る限りの書籍を読み、学問を続けた。やがて……いまから二年前か。即位した今上陛下が、癸性の者に科挙受験を認める旨、国土の隅々まで勅を発せられた。それを受けて、瓔偲はすぐに家人を説き伏せたらしい。一度限りでいいから、科挙を受けたい、と。家の者からは、それならば勘当だ、縁を切ると言われたようだが」
なるほど、
「結局は家を飛び出すような形で省試に臨んだようだが、見事一発で進士に及第したってんだから、大したもんだけどな。実際、あいつは、実に優秀な官吏だ」
そう口にする叔父が心底からそう思っているのだろうことが、燎琉にも感じ取れた。燎琉は言葉もなく、黙ったままで叔父について歩いた。
瓔偲は地方の出身だ。また、まだまだ下級官吏に過ぎなかったから、帝都・
やがて瓔偲が暮らした
開け放たれた室内はがらんとしている。
だがそれが、いったい、主の退去に伴い片付けられたからなのか、瓔偲が暮らした時からそうなのか、燎琉には判断のつけようもない。
瓔偲の上官でもあった鵬明は、すこしも
「着る物やら
差し出されるままに受け取り、燎琉は頷いた。
「燎琉。あれを……瓔偲をお前に
ふいに、鵬明はそんなことを言い出した。
「え?」
いきなりの、しかも思わぬ告白に、燎琉は目を
意外な言葉だった。
鵬明のこれまでの言い方から、叔父は瓔偲の能力を高く買っているように思われた。ならば――燎琉のつがいになったとしても、日常に目立った変化があるわけではなく、すくなくとも国官としての職務遂行が困難になることはないはずだから――そのまま何事もなかったかのように瓔偲を戸部で勤務させるという選択肢もとれたことだろう。
だが叔父は、そうはせずに、むしろ瓔偲を燎琉に縁付けるよう皇帝に言ったのだという。
その意図はいったい何だったのか――……癸性の者を燎琉の妃にすることで、燎琉を皇太子位から遠ざける。まさかほんとうに、叔父にそうした陰謀があったとでもいうのだろうか。
しかし、もしもそうだとしたら、なぜいま叔父は燎琉に敢えてそのことを告げるのか。
「どうして……」
呟きは、燎琉の頭の中を飛び交う疑念に押し出されたように口からこぼれた
「皇后……お前の母などは、公然と、瓔偲に毒杯を
「な、母上が……!」
まさか母がそんなことを言っていたとはつゆしらず、燎琉は言葉を呑んだ。
だが、燎琉を皇太子にと願い、そのために宋家令嬢との婚姻を進めんとしていた母皇后ならば、燎琉のつがいとなった癸性の者を、邪魔者と判断してもおかしくはなかった。
「陛下も皇后の意見に押されて、それも
鵬明は、血を分けた兄弟だからこそ許されるのだろう軽口を叩いてみせた。
「ともあれ、皇族会議は
だが皇族の婚姻など
「瓔偲を頼むぞ、燎琉。私にとって、あれは大事な部下だった。――あれの穴は痛手だが、こうなったからには、あれの命には変えられん」
そう言うと鵬明は、燎琉が抱える行李に、ぽん、と、軽く手を乗せた。
ずしり、と、一瞬、重みが増す。それはまるで、いま目を細めてこちらを見る叔父が燎琉に託す想いの分の重みのように感じられた。