「
瓔偲の名が耳に入り、燎琉は反射的に立ち止まる。
そのまま、図らずも、聞き耳を立てるふうになってしまったが、どうも話をしているのは瓔偲と同じ戸部の
「あいつ、
そもそも国府へ官吏として出仕しているのが間違っている、と、そんなふうに言う男の声が聴こえた。
「そうそう」
笑いながら同意する声が続く。
「癸性なら癸性らしく、男を
「いまからじゃ、
はははは、と、男たちは下卑た笑い声をあげた。
「
「殿下のことも誘惑して取り入ったんじゃないのか。発情期にさ」
「なんせ癸性だからな。ありそうなことだ」
まだ続いた言葉に、燎琉は呆然と立ち尽くした。
まさか瓔偲が同僚からこんなふうに心ない言葉を
自然とくちびるを噛み、きつくてのひらを握り締めている。
眉を
瓔偲はたしかに、昨日、癸性の己が国官として勤めることを良く思わない者もいると言っていた。が、癸性の官吏登用を決めたのは、ほかならぬ、皇帝なのである。先帝の時代まで漫然と続いていた癸性の者への
不当に何かを得たわけでもないのに、この言われようは、いったい何だ。
込み上げる
「叔父上」
そこにいたのは
鵬明は、いまにも
燎琉は叔父の背に続く形となる。
鵬明が戸を開けた瞬間、瓔偲を口汚なく
「私はこれでも、職務に関しては、公正な男のつもりでな。部下は能力に応じて使っておる。癸性だからと
敢えてのことなのだろう、低く
鵬明の様子に
「瓔偲を重宝していたのは、あれがここの誰よりも優秀だったからだがな。誠に残念なことに、事情あって、あれは職を
最後に叔父は、どすの利いた低い声でぴしりと言った。
「さて、我が
部下のみながそれぞれに職務へ戻ったところで、鵬明は燎琉を振り返った。眉を寄せて、苦々しい表情を浮かべている。
「叔父上……瓔偲はいつも、あんなことを言われていたのですか」
我が耳で聞いても信じられず、燎琉は叔父に訊ねた。
「ああまであからさまに、表立っては言わんさ。あいつのいる前ではな。だが、陰口などしょっちゅうだったろうよ」
そう言って、鵬明は溜め息をつく。
「あるいは、陰口を
鵬明の言葉に、ああそうか、と、燎琉ははたと気がついた。
だから今朝、燎琉が戸部を訪ねると口にしたとき、瓔偲はなんとも複雑そうな表情をのぞかせていたのかもしれない。戸部を訪ねれば、燎琉が、瓔偲に関する――聞いて気持ちのよいものではない――風聞を、あるいは耳にするだろうと察していたのだ。
燎琉は腹の底で、重たい憤りがぐるりと
「なぜ……!」
きつく拳を握り、くちびるを噛む。
「なぜって」
鵬明は深い息を吐き、肩を竦めた。
「これが世間の普通だぞ、燎琉。だからこそ兄上……陛下自らが、癸性の者の地位向上を、殊更
そうしなければこの状況が――癸性を有する、と、ただそれだけで偏見の目に曝され、
「が、兄上の場合は、父上……亡くなった偉大なる先帝への反発という面が大きいし、どこまで本気の政策かはわからんがな。そういう意味では、まだまだ道は遠い」
含みのある言葉を発し、鵬明は嘆息を漏らした。
それから叔父は、ちら、と、燎琉に
「ついて来い。ついでだ、瓔偲の宿舎にあいつの荷物をまとめさせてあるから、持って行け。
矢継ぎ早に言うが早いか、鵬明は燎琉の前に立って、すたすたと歩きだした。