「悪い。お前にとって俺は、もしかしたら恐怖の対象なのかもしれないのに……」
昨日、
けれども燎琉は、本来なら、もっと瓔偲の心持ちを
視線を落とした燎琉に、瓔偲は一瞬、驚いたように目を
けれどもすぐに、こちらの言の意味を呑み込んだらしく、ふるふる、と、ちいさく
「あ……ち、ちがいます。あの……眠れなかったのは、たしかに、そのとおりでございますが、それは殿下のお傍がどうこうというのではありませんから。ほんとうです。ほんとうに、ただ、すこし、気が
余計な心遣いをさせてしまったようだ、と、瓔偲のほうも申し訳なさそうに目を伏せた。
長い
燎琉はたまらない気持ちになった。
「っ、そんなの、謝らなくていい。俺のせいでないなら……ほっとした」
燎琉は心底から安堵の息をついた。
瓔偲はこれまで官吏だったのだ。皇族の住まう
彼を取り囲む環境は激変した。少々寝つきが悪くなることくらいなにも不思議なことではなかったし、瓔偲が詫びるようなことではないはずだ。
「そんなこと、あやまらなくていいから」
あやまるな、と、燎琉は顔を上げると、今度はちゃんと瓔偲を見詰めて、もう一度言った。
「はい」
瓔偲もまた視線を持ち上げ、そう、ちいさく頷いた。
それから彼は、すっと
「曙光が射す手前でしょうか、ふと、桂花のやさしい香をかいだ気がして……それで
瓔偲は燎琉の腕の中で、気恥ずかしげにそんなことを言った。
「ですが、殿下もお早くていらっしゃいますね。これから
黒曜石の眸に見詰められながら問われて、淫らな夢を見たために身に
「まあな」
また短くそれだけを答えた。
「決壊した
こちらの戸惑いには気付かなかったのか、瓔偲はそのまま話を続ける。
「うん……でも、よく知ってるな」
「鵬明殿下から伺いました。あと、
「あいつめ、べらべらと」
幼馴染の従者を
「なんで笑う?」
「すみません。その……ここは、とても、あたたかいですね」
はたはた、と、ゆっくりと瞬きながら瓔偲は言う。どこか
「いえ、その……殿下のお傍の皆さまは、周先生も、わたしのようなものに、隔たりなく接してくださいます。とてもあたたかいお心遣いまでくださって……もちろん、殿下も」
「別に、何も特別なことはしてないと思うが」
「そう……ですね」
燎琉の言葉に一応は頷いた瓔偲だったが、その声にはどこか含みがあるように思われた。
燎琉が追及しようかどうか
「
そうこうする間に、うまく話題を変えられてしまう。
「南部の、
昨日、鵬明のもとで見たときと同じように、瓔偲はいかにも官吏らしい口調で、
燎琉は、相手の見せるその
下手なことはいえない、と、ふいに、変な緊張が燎琉を襲った。
こくり、と、無意識に息を呑んでいる。
「修繕には前例もあるが……その通りにするだけでは、たぶん、駄目だと思う。再び堤が決壊するのは、おそらく防げない」
背筋の伸びる想いとともに、燎琉は淫夢の熱からすっかり
瓔偲が気をひかれたように顔をあげて燎琉を見る。燎琉は目を逸らすことなく、真正面から瓔偲の視線を受けとめた。
「前例の通りに修繕することは簡単だ。だが、たとえそうしたとしても、また数年から十数年したら、越水や決壊は起こる。これまでも、威水はそれを繰り返してきたんだからな」
燎琉は真摯な眼差しになって、言葉を継いだ。
「工部に保管された地理図を見たんだが、威水の流れは、決壊箇所のあたりで集まって、急に勢いを増すようだった。いまの堤の構造では耐えられない。だから単にそこを直すだけではなくて、もっと何か、根本的に違う工夫をしないといけないんだが……かといって、河の流れ自体を完全につけ変えるとなれば、とんでもない大普請になる。これもまた、現実的ではない。だから、
そこまで話を進めたとき、燎琉はふと思い立って、瓔偲の手を引いていた。そのまま
燎琉が瓔偲を連れていったのは、
瓔偲は燎琉の唐突な行動に驚いて目を瞠っている。燎琉はそんな彼をおいて書卓へ駆け寄ると、そこにある一冊の冊子を持ちあげた。
瓔偲に歩みより、彼の前でその冊子を
「見てくれ。これは、堤工事の案件を任されたあとすぐに、
勢い込んで瓔偲の前に示してみせるのは、ここ最近、燎琉が寝食の時を惜しんでまで読み込んでいる冊子だった。
「これは……」
燎琉が指し示す冊子に、瓔偲は驚いたように目を
ふわ、と、ひかえめに、清々しく、百合が香る。その香りに