1-6 くせものの皇弟殿下

 しゅほうめいは先帝の一番下の皇子で、現皇帝にとっては異母弟にあたる皇族である。燎琉りょうりゅうからみれば、彼は叔父にあたる人物だった。


 とはいえ、父である皇帝とはずいぶん年齢としが離れていることもあり、叔父というよりも、すこし年の離れた兄といった距離感の存在でもある。


 その叔父、皇弟おうてい・朱鵬明の殿舎は、燎琉の住まうしょうけい殿からは正殿を挟んで向こう側、楽楼宮らくろうぐうの西の一隅にある、繍菊しゅうぎく殿と呼ばれる場所だった。


 そこの表門おもてもんを叩いて燎琉が来訪を告げると、並びの御座房ござぼうから、すぐに取次とりつぎの侍者が現れる。相手はそのまま、前院まえにわ華垂門かすいもん院子なかにわを抜けて、燎琉を正堂おもやまで案内してくれた。


 きざはしを上がった先、正堂の中央にある正房では、叔父の鵬明が窓辺のながいすにゆったりと腰掛けていた。


 燎琉の姿を見ると、彼は、に、と、口の端を持ち上げる。


「おう、来たか」


 そう言う相手は、どうやら燎琉のおとないを予期していたようで、たいして驚くふうもなかった。人好きのする笑みで燎琉を迎え入れると、すぐに榻から立ち上がる。


「で、何の用だ? また私のお忍びでの都城まち歩きにでも付き合ってくれるつもりで来たのか? ん?」


 続くのは、いかにもとぼけた口振りでのそんな言葉である。


「叔父上」


 燎琉はむっとくちびるを引き結び、とがめる口調で言いながら、ちらりと相手をめつけた。


 燎琉の鋭い視線を受けて、鵬明は、くすん、と、肩をすくめて見せる。


「冗談だ。そう尖るなよ。――来い。瓔偲えいしは西廂房しょうぼうにいる」


 そう言うところをみるに、鵬明にはどうやら、こちらの用向きもすでに伝わっていたものらしい。そう言うや否や、叔父は燎琉の前に立って、房間へやを出た。


 どうやら自ら郭瓔偲のいるところまで燎琉を案内してくれるつもりのようだ。


「ちょっと……叔父上!」


 心の準備をするよりも前に郭瓔偲に対面させられることになりそうで、燎琉は戸惑った。慌てて鵬明を追って院子なかにわへと下りつつも、叔父を呼びとめるようにその背に声をかける。


 すると鵬明は、立ち止まったりはしないままで、ちら、と、こちらを振り向いた。


「あ? なんだ、燎琉。これから伴侶つまになる相手の顔だぞ。ふつう、一刻も早く拝みたいだろうが? だから、この私は、気を利かせてやっている。期待しておけ、瓔偲は美人だぞ」


 最後はからかうようにそんなことを言った。


「期待って、何を莫迦ばかな……!」


 燎琉は叔父の言に口を曲げて反論する。


伴侶つまと言いますが、あれは事故です……俺が望んだ婚姻でもないのに」


 そう言い訳でもするようにつぶやくと、ふん、と、鵬明は鼻を鳴らした。


「だが、皇族の結婚なんぞ、はなからそんなもんだろうが」


「いい年齢としをして独身ひとりみを通している叔父上にだけは言われたくない……!」


 眉を寄せて文句を言ったら、たしかにな、と、鵬明はからからと笑った。


 皇弟・鵬明はすでに三十路を越えているが、好色の遊び人との風聞の一方で、いまだに妻帯はしていない。縁談が持ちこまれなかったわけではないだろうから、どれにもうべなうことのないままに、今に至っているということなのだろう。


 鵬明の母はいまの皇太后、その母親の実兄、すなわち母方の伯父は門下侍中――いわゆる宰相職――という要職に就いている。婚姻によって下手に権門家と結びつき、皇帝に野心を疑われたくないという思惑もあるのかもしれないが、と、燎琉はちらりと叔父の精悍で整った横顔を見た。


 そう思えば、叔父が独身であるのもまた、皇族ゆえのままならなさの、ひとつのあらわれなのかもしれない。


 燎琉の視線に気づいたのかどうか、鵬明がふとこちらを見た。


 その口許に、わずかに微苦笑めいた笑みが浮かぶ。


「災難なのはあれ……瓔偲にとっても、同様だ。まあ、そう言ってやるな」


 部下をおもんぱかる言葉と共に、鵬明は院子にわから西廂房へと続くきざはしを上がっていった。


 そしてそのまま、わずかの躊躇ためらいもなく、房間へやの正面の扉を押し開ける。


「瓔偲……お前のつがいが来たぞ」


 そんなことを言いながら、鵬明はつかつかと房間へ足を踏み入れた。


「叔父上……!」


 鵬明の発言をとがめるように相手を呼びつつ、後に続いた燎琉は、扉のところで顔を上げた刹那、思わず、はたりと足を止めていた。


「あ……」


 呆然とつぶやいたきり、言葉を失ってしまっている。


 この西の堂宇たてものを、鵬明はどうやら、殿舎で仕事をする際の書房として用いているらしい。扉を開けた先の房間へやには、巻帙かんちつの積み上げられた書架があり、その前には、書卓が据えられていた。


 漏窓すかしまどから、明るい昼の陽脚が射し込んでいる。


 房内に射す光の中、ぽかりと出来た光溜まりで、書卓について書き物をしているらしいひとりの青年がいた――……鵬明の呼びかけに応えるように顔を持ち上げた彼の、その、端正な容姿は、どうだ。


 白いはだ。整った目鼻立ち、薄く形のよいくちびる。背に流れるつややかな黒髪。


 長いまつげが縁取る目許は涼やかで、すっと伸びた背中が、澄んだ、りんとした雰囲気をかもしていた。


 まるで一幅のだ――……それも、名匠の描いた、うっとりとするほどに見事なそれ。


 そのときの燎琉は、数瞬の間、まばたきも忘れて相手を見詰めていた。


 ふわり、と、かすかに清冽な百合の香をいだ気がする。


 書卓の前に端坐する姿に見惚みとれること数刹那、まるで燎琉りょうりゅうのその視線に気が付いたかのように、ふいに、整った美貌が、すうっと燎琉のほうを向いた。


 理知の光を宿した黒眸が、こちらへと真っ直ぐに据えられる。はた、はたり、と、相手は黙ったままで、ゆっくりとまたたいた。


かく瓔偲えいし


 燎琉は意味もなく相手の名を呟いていた。


 互いに初対面ではない。なぜなら、いま目の前にいる相手こそは、七日前のあの日、燎琉がいだいた相手だったからだ。


 けれども、その時、燎琉は発情状態だった。熱に脳内を侵されていたためか、記憶はひどく曖昧あいまいだ。


 郭瓔偲が――自分が狂おしく求め、つがいにまでなったはずの相手が――いったいどんな容貌をしていたのか、燎琉はまるで覚えてはいなかった。そんな己を、いま改めて意識させられていた。


 これが郭瓔偲――……燎琉のつがい。


 そして、こののち、妃として、伴侶つまとして、迎えることになる相手なのか。


 互いに視線を絡めあったままのほんの数瞬は、けれども、まるで時が止まったかのように感じた。


 だが、息を呑むような時間は長くは続かなかった。瓔偲がすっと立ち上がったからだ。燎琉は思わず身構えるかのように身体を固くしていた。


「鵬明殿下」


 が、案に反して、やわらかに響く声がまず呼んだのは叔父の名だ。


「収支が合わぬとおおせせの資料を、いまひとたび調べてみておりましたが、やはり、吏部りぶですね。吏部の支出が、ここ数年、わずかずつですが多くなっている。計算が合わぬのはそのせいかと……早々に、吏部りぶ侍郎じろうにでも問い合わせたほうがよろしいかと存じます」


 彼は、いかにも凛とした声で、よどみなく口にした。