珍しくもない黄色い花が咲いている。どこかで見た花だったし、どこにでもあるような花。少しだけ懐かしいと思ったアシュランはその花に触れてみる。変な花だな、食い物にもなりゃしない。でもその目が覚めるような黄色は,
アシュランの耳に囁いた。
(もう、出発するんだって)
驚いたアシュランは周囲を見る。誰もいないし、何もない。まさか花が喋ったのか?自分は一度死んでおかしくなっちまったのか?一度死んだことがおかしいはずなのに、アシュランは少し混乱していた。
死にそうな目には何度も遭ってきたけれど、実際に死んだことがあるのはこれが初めてだ。だから、自分にどんな変化が起きていてもおかしくはない、と思う。でも実のところは変なことが起きなければいいなぁ、とは呑気に思っていた。
(メイン、もう出発するの)
(あなたがいないと出発できない)
(だから、早く行ってあげて)
温かい春の風。その中にアシュランは確かな言葉を聞いていた。花が喋るなんて、と思った時に、噂では国花選定師なる存在は歴代植物の声が聞こえると言う。傍から見れば植物に話しかける頭のおかしな存在に見えるが、国の根源である医療や薬剤は、国花選定師が居なければ作れないらしい。どういう仕組みになっているのか、植物で何ができるのか、傭兵のことしか分からないアシュランには何も理解できなかった。
国王お抱えの魔術師---と国花選定師のことを呼ぶ者もいる。確かにお抱えであることは事実だが、その全貌は明らかにされていないし、一端の傭兵にそれを知る術などあるわけもなかった。国花選定師がいない国が荒れる、それだけは彼自身が体験して知っていることであり、どうしてそうなるのかまでは、しっかりと理解できていなかった。
だが実際に花の声を聞くと心地いいものだ。悪くはない、とつい本音が出そうになる。花の声、植物の声とは、耳というよりも頭に直接聞こえてくるようなものだ。普通ならそれを恐怖として捉えるだろうが、今は違う。こんな気持ちになれるのも、悪くはないのだ。
アシュランのような傭兵は、危険と隣り合わせで生きていく。眠れない夜もあれば、血にまみれる日もある。一緒に酒場で飲んでいた輩が翌日には死体になっていることも多い。だから心地よい場所など知らなかった。娼婦の腕の中だって、所詮は金で買ったまがい物。表を歩く兵士や勇者や冒険者たちが、浮足立って、大事な家族のところへ帰って行く姿とは違うのだ。自分に似た我が子を抱き上げて、笑い合って、抱き合って、妻の作った美味い飯を食う。
ただそれだけのことに、彼は恵まれていなかった。愛されて育たなかったから、愛されることを知らない。家族や本当に守るべき存在を知らずに、大人になった。子どもの頃のことなど、思い出したくもないから、思い出さないようにしているし、知られたくもない―――それが、彼の本音。
一匹狼でも、一匹なら平気だ。ずっと一匹でずっと一匹で過ごせばいい。しかし、自分だけが一匹なのだと気づいた時、それはとても空しいことだと気づかされる。
だから余計に粗暴になって、いつ死んでもいいと思うような行動を取る。誰でも殴ったし、誰でも馬鹿にした。自分はいつ死んでも後悔はないし、どこで死んでも死体は死体だ。葬儀代なんて持っていないから、ごみ捨て場に放置されたってかまわない。
そう思って生きてきた。
でも。そうではない世界があるのだと、目の前の花が教えてくれる。黄色い花は、温かさと愛情をアシュランに教えてくれる。こんなに温かい存在があったなんて知らなかった。そして、その存在が自分に語り掛けてくれるなんて。
黄色い花を突いて、踵を返す。来た道をゆっくり戻って、出てきた酒場を目指す。あのブスな小娘はあそこ以外に行く場所がないだろう。それとも王城に戻っただろうか。自分の腕に刻まれた契約の証が残っているから、解除はされていないはず。
そんなことを思いながら酒場のドアを開けた。昼間の酒場に客は少ない。アシュランが大暴れしたから、まだ片付いてもいなかった。マスターには世話になっているというのに、悪いことをしてばかりだ、と思う。アシュランが暴れたのはこれが初めてではなかったし、いつもこうやって喧嘩をしては、手当てをしてくれるのはマスターか、マスターの死んだ妻だった。マスターの妻が死んで、もう何年だろうか。そんなことを思い出してしまう。
階段を下りてくる足音がした。昔、マスターの妻もこうやってやってきて、アシュランの頭を小突いては、本気で怒ってくれた。シチューなどの煮込み料理を作るのが美味くて、ちょっと強気ないい女。でも、マスターの子どもを産めなかった、と寂しそうに笑うことも多かった。
マスターには子どもがいない。気に入ってもらった嫁が、最初の子どもを産んだ時に、体を悪くした。二度と子どもは望めなくなって、せっかく生まれた子も、流行り病の薬が間に合わずに死んでしまった。
それから、マスターと妻は2人で荒くれ者の集まる酒場と食堂を懸命に営んできた。そこに流れてきたのがアシュランである。ボロボロの捨て犬なんて言われて、妻からは風呂に入らなければ店には入れない、とまで言われたほど。
あの頃が懐かしいな、と最近忘れてしまっていたことをアシュランは思い出していた。あの人が死んで、もうだいぶ経つ。病気になってから、あの人は外にも出られなかったから、アシュランは自然とこの店に来ることが多くなったのだ。
「マスター、悪かったな、片付けもしねぇで……」
マスターだと思って、アシュランは言う。自分をいつも守ってくれていた見せをこんなことにしたのは何度目だ。少しは反省しつつ、顔を上げると、そこにいたのはメインだった。
赤毛に小柄なその少女は、この国で1、2を争う大事な存在。きっと王の次くらいに大事な女性。漂ってくるのは優しい花の香だ。けれどもアシュランにとっては、勝手に契約した忌々しい存在として見えた。花が自分にもたらしてくれた穏やかさは、すぐに消えてしまう。
「いたんか、ブス」
「帰ってきてくれたんですね、よかったぁ」
「聞いてるのかよ、ブス」
「私、ブスですけど、名前はメインです」
彼女はそう言って笑った。ブスだからブスだと言っていたわけではない。その赤毛に、そばかすの顔が地味で女らしくなかっただけなのだ。まるでそれを見透かされたように思う。アシュランはそうかい、とだけ言った。
「アシュランさん、ご迷惑だとは思うんですけど、一緒に旅に出てもらえませんか!」
「いや、マジ迷惑だし」
「お金、出します!」
「アンタ、文無しだからここ来たんだろ」
「ちょっとはあります!後は働けばあります!」
「はぁ、なんだよ、お前はよぉ」
キラキラと輝く瞳は、子供のまま。そういえば国花選定師とは聞いていたが、年齢は聞いていない。まあこんなに小柄でそばかすの娘だから、大して年でもないだろう、とアシュランは高を括っていた。
「花を育てて、植物から薬を作ります!」
「俺は薬屋じゃねぇっての」
「薬の作り方とか、植物の育て方、増やし方をもっと知りたいんです」
「だから……」
「だから、旅に出て別の国の国花選定師に習うんです!」
習う、と彼女は言った。拳を握って鼻息まで荒くしている。その顔は一生懸命だが、とても不細工だと思った。こんなに一生懸命に語っているのに、鼻息の荒い娘は不細工でならなかった。
「普通は前任者に教えてもらうんだろ、そういうの。アンタには師匠とかいねぇのか」
「私の場合は……前任者の母がもう死んでしまったので、残った資料から独学しました」
輝いていた目が急に暗くなった。しかしすぐにその目はまた光を取り戻し、アシュランに近づく。
「だから一緒に来てください!護衛です!」
「嫌だね」
「私、馬にも乗れません!」
「堂々と言うなよ!」
ニコニコと笑いながら言うメインは少し変わった女だ、とアシュランに思わせる。しかし母親が死んだ、という話の時は本当に哀しそうだった。
コイツにも親がいないのか、と思うとアシュランは少しだけ同情はする。国花選定師ともなれば、そこら辺の町娘などとは話が違う。読み書きもできないような娘たちとは違って、彼女は読み書きはできてあたり前、国の歴史や政治も知っているだろう。要は知識があって、頭がよくなければその地位には就けないのだ。
「1年です!1年我慢してください!」
「長い」
「いいじゃないですか!」
「長すぎる」
嫌がるアシュランにメインは大きなため息をついて、首を振った。
そして、アシュランが最も聞きたくない言葉を放つ。
「はぁ、仕方ありません。じゃあ、貴方に使った薬の代金、今ここで全額払ってください!」