第39話 それは生きているということ

 吉良は、『餓鬼憑きあるいはヒダル神による一怪異』とラベルの貼られたファイルを捲ると、一番後ろのページに、たった今プリントアウトしたばかりの報告書を入れた。最終報告書だ。少なくとも現時点においては、という条件付きではあるが。


 点と点がどこで結びつくのかわからない。点だと思っていたものが実は過去や未来と線で繋がっており、現在に鮮やかに蘇る。ことあやかしに関して言えばそのようなことは日常茶飯事だった。


 あやかしに取り憑かれた者は再び取り憑かれやすくなるという話もある。未来のどこかの時点でまたこのファイルが開かれて役立つこともあるかもしれない。


 昔とは違い、あやかしはもう人間と同じ社会に生きているのだから。


 ただ、願わくば二度と開くことがないよう、と願いを込めて吉良はファイルを棚に戻した。


 目指すのはあやかしのいない世界ではない。あやかしと人とが共存できる世界だ。


 恐怖に基づく偏見や差別は根強く残るものの、あやかしの存在が公に認められた以上は歯車は前に進むしかない。前に進めないといけない。


 コーヒーの強い香りがドアをすり抜けて漂ってくる。時計を見るとちょうど休憩を知らせる柔らかな音色が鳴った。机の上を片付けると背伸びを一つして二階のリビングへと向かう。


 ドアを開けるとコーヒーの濃厚な香りが増した。穏やかな空気が流れるなかに優希と愛姫の楽しそうな声が混ざって降りてくる。正面の玄関棚の上に飾られた鬼灯が柔らかく揺れた。


 階段を一歩一歩踏み締めるように上ると、リビングの中央にドンと置かれた家庭用の小さなプールで泳ぐ優希の姿が目に入った。奥に移動したテーブルには木製のコーヒーカップが二つ置かれて、一方の椅子に座る愛姫が穏やかな笑顔を浮かべて我が子を見守っていた。


 優希が泳げることを知ったのは餓鬼憑きを巡る怪異が終わり、帰宅したその日だった。お土産を渡そうとした吉良の腕を引っ張った愛姫がリビングへと連れていき、プールに浮かぶ赤子の姿を見せたのだ。


 慌てて駆け寄った吉良の顔を見つけた優希は足で水面を蹴って何の苦もなく父親に近付くと、その顔目掛けて水を掛けた。「川姫」の血が早くも発現したらしい。


「お疲れさま」


 そのときと同じ悪戯な笑みが吉良に向けられた。コーヒーを一口飲むと、カップを膝の上に置き前髪をかき分ける。


 吉良も「お疲れさま」と返すと、空いた椅子に腰掛け湯気の出ているカップへと手を伸ばした。


「やっぱり水の方が落ち着くみたい。泳ぎもどんどん上手になって、さっきまでね、寝ていたんです」


「プールの中で?」


「そうプールの中で。だけどコーヒーを入れ始めたら起きたから、伸也くんに似てコーヒーが好きなのかもしれない」


 一度潜ってぷかり浮かび上がると、優希は不思議そうに吉良の顔を見ていた。


 川姫は元来水辺に棲むとされるあやかし。水との相性は抜群だ。その性質を引き継いでいるからなのか、優希はどんなに泣いていても水面に体をつけるとすぐに泣き止んでしまう。


 川姫の性質はその他に異性を惹き付ける魅了と、愛姫に限っては身を守るためにと母親から教わったという護身術がある。


 それらの能力がこれから発揮されてくるのかどうかは未知数だ。あやかしと人の間に生まれた子がどう成長し発達していくか、事例はまだ少ない。


 吉良はかつて、共に人とあやかしの未来を切り開くために戦った仲間の顔を思い出してふっと、笑った。思えば愛姫と自分とを結びつけてくれた人だ。


「ねえ、愛姫」


「うん?」


 愛らしい顔が吉良へと向いた。絵画や彫刻のようだ、と間近で顔を見つめる度に思う。あくまでも客観的な目で、だが。


「優希はどんなふうになるんだろうね」


「なに? どうしたんですか、急に」


「いや。今はこんな小さなプールでさ、僕と君と、三人だけの関係の中で生きているけど、きっとすぐに大きくなる。プールは小さくなって家の外に出ていくときが来る。家の中では自由に泳げても、外がそれを許してくれるとは限らない」


「……そうですね」


 目を逸らした愛姫は両手で持ったカップをくるくると回した。ミルクを足したカフェオレがカップの中に小さな渦を作り上げている。


「ごめん。悲観的な意味で言っているんじゃないんだ。今はただそれでいいんだなって」


 顔を上げた愛姫の視線は慎重そうに吉良の瞳の色を窺う。吉良はにこりと微笑みをつくって不安に応えた。


「水を得た魚のようと言うとちょっと違うけど、優希は本当に嬉しそうに泳ぐよね。教わったわけでもないのに手足を自然に動かして。最初はびっくりしたけどさ、今は泳ぐ姿を見ているだけで嬉しさが込み上げてくる。不思議なくらいに」


 小さな水飛沫が起こり、吉良の顔へと掛かった。ついでにコーヒーにも水が入ってしまう。笑い声が華やぐ。


 吉良は近くにあったティッシュをつかむと眼鏡を拭きながら「少し悪戯好きなところも君に似ているかもしれないね」と言い、綺麗になった眼鏡を掛けた。


「なんて言うのかな。楽しむことを楽しんでいる。優希を見ているとそう思ったんだ。水の感触を、手と足の感覚を楽しんでいる。いつかは当たり前になるものだけれど、今は全部が初めてのことで新鮮なことなんだ」


 そう。それはきっと生きているということ。それがきっと生きているということ。


 目を輝かせて話す吉良を愛姫が微笑ましく見ていた。


「伸也くん。終わったんだね。今回の怪異」


「いや、まだだよ。怪異は終わったけれど、一つだけやることが残っている。この休憩が終わったらそこへ行ってくるよ」


「そう。お土産は?」


「もちろん買ってくるよ」


 吉良は優希が飛ばした水入りのコーヒーを飲んだ。マイルドな苦い味わいがじんわりと舌の上を広がっていく。全身が暗闇に包まれていく感覚が、なぜか肌の上を撫でていった。