第38話 奇跡

 大きく占めた窓に朝陽が一様に降り注いでいた。優しげな陽光がレースカーテンを通り抜けて窓辺を淡く輝かせる。


 薄暗い病室に和やかな色彩が加わる。


 病室にはベッドと付属する棚類以外本当に何も置かれていなかった。前の利用者が忘れていったカレンダーや写真もありはせず、天井や床や壁は全く新しく用意されたかのように静かに光沢を主張していた。


 内田紗奈が入院していた、そして亡くなった病室で今は、生まれたばかりの赤子が眠っていた。


「かれこれ二時間か?」


「全然起きる素振りがないですね。お腹がいっぱいになって、安心して眠っているのでしょうか」


「だといいがな」


 月岡は、口の中で飴玉を転がす。


「柳田は、まだ掛かりそうなのか?」


「まだ何十人と寺に集まっていたようですから、一人ひとりの状態を確認するだけでも相当な時間がかかると思います」


 病院に運び込んだあと、すぐに赤子は保護された。体の汚れを綺麗に洗い落とされたあとにはすぐに十分な栄養を与えられ、診察と検査が行われた。


 その間中ずっとぐずっていたが、吉良の腕の中に戻ってきたときにはまたピタリと泣き止み、病室に移動している間に深い眠りについてしまった。


 担当した医師が言うには、精密検査は当然必要だが、現状では全て異常なし。健康そのものだと言う。そして、こうも付け加えた。こうして生きているのは。


 ──奇跡、だと。


「雨平から報告があった。あやかしが消滅したのと同時刻、餓鬼憑きの症状が一気に消えたらしい。奇跡だとか、いつになくはしゃいだ声でほざいてたな」


「初めてあやかしの出現と消失を見たのならそう思ってもおかしくないと思います。無かったものが現れて有ったものが消えていくのだから」


 吸い込んだ息を鼻から体の外へと吐き出す。肩の荷は降りて、体は少し軽かった。


「吉良。お前はいつもこれを経験してるのか?」


 やけに優しい声が降ってきたせいで、思わず口の端がニヤけてしまった。当然のことながら舌打ちが返ってくる。


「なんだよ」


「いえ、すみません。そうですね。意図があろうともなかろうとも、人間に害をなすあやかしならば封印するか存在を丸ごと消すしかないときもあります。特に今回は、理性のあるあやかしではなかった。話が通じないために、もう沙夜子さんの手を借りるしかありませんでした。あやかしの中には、上手くすれば人間社会と共存できる者もいます。そういうときは話し合いで済むこともあるんですけどね」


「お前の家族がその一例か?」 


「……愛姫は、人間として生きようとしていました。あやかしという自分自身を偽って人間社会に溶け込もうとしていた。ですが、無理だったんです」


「人間は簡単に差別するからな。それに檻に閉じ込められてもいずれ限界が来る。この子もそうだ。人間は人間だが、出自を知られれば途端に恐怖の対象になってしまう。あやかしと関わっているだけで特別視されるんだからな」


「それは、月岡さん自身もですか?」


 月岡は何も言わなかった。腕を組んで黙って目を瞑り、口の中でまたコロコロと飴玉を転がす。


 ドアが開いた。沙夜子だ。白装束姿からパンツスタイルに衣装を変えたところを見て、吉良は怪異はひとまず収束したのだろうと予想した。


「待たせたわね! 赤ちゃんは、無事!?」


「……あっ」


 急に大きな音がして起きてしまったのか、ベッドからぐずる泣き声が発せられた。吉良がベッドに向かって白い毛布に包まれた赤子を抱き上げると、腕の中で落ち着いたように手を動かして遊び始めた。


「随分と懐かれたのね」


 沙夜子の口からふふっ、と笑みが零れた。


「でも、もっと懐く前に話を進めないといけないわ。その子をどうするのかは、簡単には決められない」


「施設に預けるほかないんじゃないか? 幸い今なら記憶も定着しないだろう。出自は隠して成長すれば、並みの大人にはきっとなる」


 吉良が頭を撫でると気持ちいいのか楽しいのか、「あっ、あっ」と嬉しそうな声が上がった。吉良の腕を掴もうとしているみたいにまだ上手く扱えない指をもどかしそうに動かしている。


「その前に、教えて下さい。この子を産み落としたのは、やはり内田紗奈なんですか?」


 にわかには信じられない話ではある。少女、とそう表現してしまう程には幼い年齢の人間が赤子を身籠り、産んだ。しかも周りに気づかれることなく一人でそっと。


「違和感はずっとあった。内田さんの話、そして吉良のところに来た白坂さんの話を聞いたときにピンと来たのよ」


 ベッド脇に腰を掛けると、沙夜子は窓の外へと顔を向けた。その視線の先を追うと、どこまでも広がるような青空の下に人の行き交う街並みが広がる。


「『どこかへ行って帰ってきた』。両親も知らなかった。当初、警察も私達も知らなかった。なぜ誰にも言わないで行ったのかと考えたら、誰にも言えない後ろ暗い答えしかないじゃない。あんな人気も無い、道程も遠い、だからこそ呪いの場所に選ばれたような場所に、少女が一人で行く理由なんて数えられるくらいしかない。誰にも相談できなくてどうしようもなくなって、あの場所へ産み落とした。その行為が椿杏の所業と重なり合った末に、あやかしに取り憑かれてしまった。──その結果が今に繋がっているのよ」


「ちょ、ちょっと待ってください。部外者はともかく家族が、あの両親が知らないなんて。そんなこと──」


「あるのよ」


 沙夜子は窓の外へ目を向けたまま言い切った。茶色の髪の隙間から見える瞳が朝陽に似合わない哀しげな色をしている。


「誰にも言えなくて、誰にも知られなくてどうしようもなくなって一人で産むしかなかった事例はたくさんある。人知れず病院で産むならまだいい方。赤ちゃんポストってあるでしょ? 産んでも育てられない赤ちゃんの命を救う最後の砦。でも、そこに置いてくることも知らずに、思い付かずに、臍の緒がついたまま生まれたばかりの赤ちゃんを遺棄するなんてことは当たり前にある話なのよ」


 そこで、沙夜子は小さく息を吐いた。


「そうね。誰か一人でも気づくことができたのなら防ぐことができたかもしれない。だけど、この子の場合は誰も本人の変化に気がつくことがなかった」


「なんで……どうして?」


 疑問を呈するも理解することができず、吉良は押し黙ってしまう。わからないはずがない。妊娠なんて傍目から見てもすぐにわかる。何よりあの両親は、娘を大切に思っていた。激昂するほどに、壊れるほどに。それなのに──。


「理由はわからないわ。親子関係はどうだったのか、相手との関係は何だったのか、それらはもう推測するしかないしどうしようもないこと。だけど、彼女はその子を産んだ。そして、餓鬼に取り憑かれて死んだ。それだけが、それだけが表の事実として残ったのよ」


 沙夜子は早口で捲し立てると窓へと進み窓ガラスに手を当てた。何も言わずに光に包まれた外の世界を見つめ続けている。代わりに口を開いたのは月岡だ。


「捜査は終了だな。あやかしの怪異は去った。内田紗奈が生きていれば、赤ん坊の件で捜査する必要があったかもしれないが彼女はもういない。あとは、その子をどうするかだが──」


「ちょっと待ってください! そんな簡単に済ませる話なんですか? この子の母親が死んでしまったんですよ! それも普通の亡くなり方じゃない。何があったのか、真相を確かめる必要があるんじゃないですか? せめてDNA鑑定をして身元をハッキリさせるとか、産んだあとで育てる意志があったのかなかったのか、周りの人は本当に知らなかったのかとか! 月岡さん言ってたじゃないですか! 真相に近づく瞬間が一番面白いんだって! 重要なことじゃないんですか!?」


 泣き声が部屋中に響き渡った。また急に大声を出されてびっくりしてしまったのかもしれない。あるいは、感情の昂りを敏感に察知してしまったのか。吉良は声のトーンを落とすと、また体を揺すってなだめさせた。


「……吉良。その真相は、誰かのためになるのか」


 空気を撫でるように小さく呟かれた言葉が、重たく深く沈んでいく。


「赤ん坊を遺棄した犯人はもうわかっている。今の刑法上、それは罪だ。死人に罪を負わせることはできない。償うことはもう叶わないからだ。真相を暴けば償えない罪は誰に向かう? 誰が代償を払う? 巡り巡って傷つくのは、生まれたばかりのその子自身だ」


「……そしたらこの子はどう生きればいいんですか? 両親もわからない。出自もわからない。自分がどこから生まれてどこへ行けばいいのかもわからないまま、生きていけと言うんですか?」


「だったらお前が預かればいい。もう一人の子どもとして育てればいい。事情を知っているお前のところなら安心だ」


「そんな無責任な!」


「そうよ。誰もが命に対して無責任だからこそ、今回の怪異が起こったんじゃない」


 沙夜子の声が吉良に月岡、二人の言い争いを止めた。感情を一切含まない厳かな声が。


「生まれた命の行き場がなくて、凄惨な事件が起こった。昔も今も変わりなく、一人では生きていけるはずのない命なのに誰も助けようとしない。気づかない。気づこうともしない。声が失われていくのをただ待つだけ。……だけどね」


 振り返った沙夜子の瞳は濡れていた。赤子を見つめる二つの瞳が。少なくとも吉良にはそう見えた。


「あのあやかしは生きようとしていた。何も見えない暗闇の中で産声を上げて生きようとしていた。人間に取り憑き栄養を奪ってででもひたすらに生きようとしていた。あの姿を見ていると感じたの。吉良ならわかるでしょ? 少女は生まれた赤ちゃんを見て、あやかしに取り憑かれながらも願ったのよ。──とにかく生きてほしい、って」


 火がついたように再び泣き声が上がった。体を揺らしても頭を撫でても今度は一向に泣き止む気配がない。胸の中に抱き止めると、その小さな体をきつく抱き締め背中を擦る。


「奇跡だと言われたんですよ。生きているのが、奇跡だと。だったら僕はそれを信じたい」


 過去に多くの命が消えていった。生きようと上げた声が消されていった。暗闇の底にうずめられ存在しないものとされた。


 だが、そこから浮上し暗闇を抜けて生まれた命もあった。泣き叫ぶ声があった。


「月岡さん。真実は残酷かもしれない。恐怖かもしれない。でも、闇に蓋をしてしまっては生まれた奇跡も無いものにされてしまう気がするんです。だからどうか、お願いします」


 吉良と赤子の顔に交互に視線をやると、月岡は片手で頭を掻いて病室のドアを開けた。


「月岡さん、どこへ行くんですか!? まだ話は──」


「うるせぇな。タバコでも吸わないとやってられねぇだろ、こんな仕事。だが、責任は持たねぇぞ。これはあくまでもあやかしの問題だ。最後の最後で責任を果たすのは、吉良。お前の仕事だからな」