彼は布団からもそもそと右手を出して、
ボタンを押せば一時的に止まる目覚ましを、
アラーム自体のスイッチを片手で器用にオフにした。
「うーん…」
彼はまた、布団にもぐりこんだ。
あたたかい布団の中は、とても落ち着いた。
とんとんとん…
足音が近づいてくる。
そして、ガチャリと彼の部屋のドアが開いた。
「もぅ、緑。朝よ、起きなさい」
彼…風間緑は、女性の声で目を覚ました。
「ほら、今日はいい天気。お布団も干したら?」
女性は緑の部屋のカーテンを大きく開けた。
さんさんと日が差し込んでくる。
「母さん」
「なに?」
「なんでもない」
緑はいろいろ話したいことがあったように思ったが、
ぼんやりとしていて、何もまとまらなかった。
ぼんやりしたまま、頭をかしかしとかいた。
母と呼ばれた女性は、そんな緑を微笑んで見ると、
「とりあえず、母さんはうちの子にお日様あてるから。出かけるからご飯は適当に食べてね」
「いつものテニス?」
「いつものテニス」
母は浅く焼けた顔で、白い歯で笑った。
母、
植物の世話とテニスが大好きな、元気はつらつとした女性だ。
気に入った植物があれば、鉢に植えて育て、
日光にも適度に当てるように移動させ、
水をあげて風にも当てる。
小さいながらも温室があり、
庭にも大量の植物。
そして、芝の庭の草むしりもする。
家事もするし、趣味に健康的なテニスもする。
パートなどはしていないが、50も目の前の母は、元気に主婦を謳歌していた。
「緑の部屋にも、何か植物置いたら?」
「水やらないかもしれないから、いい」
緑は、布団から起き上がると、うーんと伸びをした。
「じゃ、うちの子たちにお日様あててくるわね」
「はーい」
緑は気の抜けた声で母を送り出した。
母はパタパタと緑の部屋をあとにした。
母がうちの子というのは、母の植物たちのことだ。
いくつもある。
母は、緑もうちの子というが、植物もうちの子という。
癖なのかもしれない。
太陽がまぶしい。
「布団干すかな」
緑はよいしょと起き上がると、布団をまとめだして…
はたと思い当たった。
いつ、布団しいて寝たっけ?
寝巻きにも着替えてるし…
緑はうんうんと考えた。
なんだか大事なことを忘れている気がする。
なんだか、とてもワクワクして…
昔に戻ったような感覚。
夢でも見ていたのだろうか。
夢と片付けるには、心が拒否した。
何とか思い出したかった。
緑は布団を干すと、
熱いシャワーを浴びて、着替え、適当に食事をして、大学へと行った。
バスに揺られる道々の中、
少しでも植物が目に入ると、何かが引っかかる気がした。
ぼんやりしがちの緑は、考える。
何かを今、忘れてしまっている。
たとえばこの風景の裏側にあるものを忘れているような感覚。
大学の最寄のバス停を降り、キャンパスまで歩く。
時期を過ぎた桜も緑色がまぶしい。
太陽はこんなに明るかっただろうか。
風はこんなに無口だっただろうか。
日常がつまらないわけではない。
何もかもというわけではないが、充実している。
緑は講義を受けると、いつものようにバイトに行き、
いつものように夜になってから帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。布団干しっぱなしだったから、入れといたわよ」
「ありがとう」
緑はそのまま部屋に戻ろうとする。
「あ、それから、部屋に時計が落ちてたわよ。パソコンの机の上に置いといたから」
「時計?」
緑の中で何かがはじけた。
ばたばたばたっと廊下をかけて、部屋のドアを開けた。
机の上には、懐中時計が。
これは…壊れた時計だ。
緑は壊れた時計を手に取る。
これがないから、忘れてたんだ。
「おい」
聞きなれた声がする。
ネフロスの声だ。
「はい」
緑は…タムは振り返った。
「表側の世界で、あっちこっち行くやつは大変だな」
「今度からは忘れないようにします」
今、緑とタムはだぶついている。
「扉はアイビーがつなげてくれた。行くぞ、裏側の世界へ」
「はい」
いつの間にか身に着けていた、緑色のポケットがいっぱいのジャケットに壊れた時計を入れて、
緑は完全にタムになる。
見慣れたネフロスの後に続いて、
タムは裏側の世界へと扉をくぐった。