やはり、鞠花に関しては考えすぎなのだろうか。
練習中、夏樹はそれとなく観察していたが、今日も部活中の鞠花は熱心にコントラバスの指導を受けているばかりだった。低音パートの他の先輩も中心に、真摯な態度も相まって可愛がられているらしい。一年生たちも、誰に対しても偉ぶらずに丁寧な言葉遣いで接する鞠花にかなり好印象であるようだった。
――本当に、俺の事が好きになって追いかけてきただけ?他に何か目的があるかも、なんて考えすぎだったのかな。
「ちょっとー萬屋君?私のお話聞いているかなぁ?」
「うぐっ」
ぽく、と頭の上に何かがぶつかってきた。ファイルで軽く叩かれたのだ、と気づく。目の前にいるのは、トロンボーンのパートリーダーである三年生、
別名、ちっちゃな巨人。
身長155cmと比較的小柄ながら、ソロも華麗にふきこなす、存在感あるリーダーだ。普段はおっとりしていてマイペースな人だが、怒らせるとかなり怖いことでも有名である。
「課題曲は“滲む蒼穹”で決まったって言ったでしょ?忘れちゃったのかなぁ?明らかに、“英雄の再誕”と比べると練習不足感が凄いよぉ?」
「……すみません」
結局、課題曲は部長の意見が通る形となった。コンマスや多くの部員たちがやりたがっていた二番目の曲こと“朝焼けのパレード”は、他の学校にも人気で比べられやすいということで却下。
先生は、現在の吹奏楽部の実力でも無難に仕上げられそうな四番目の曲こと“ナナリーに捧げるレクイエム”をやりたがっていたが、これも完成させられたところで県大会突破は難しいということで却下され。結果、一番難易度が高いものの完成度を上げられればかなりのポイントがつくであろう“滲む蒼穹”という曲に決まったのだった。
この曲は他の学校もあまり採用していないし、それでいて華やかさもある。演奏できれば楽しいには違いない。――楽しい、レベルまで演奏できるようになるのが、かなり大変そうな曲ではあったが。
「まだ決まったばっかりでバタバタしてるのはわかってる。でも、家でも譜面の読み込みはできたはずでしょ?休みの小節数も数えられないようじゃまずいって」
「うぐぐぐぐ」
まったくの図星である。
そう、吹奏楽で演奏する時、意外と難しいのがこの“休みの小節数の数え方”なのだった。どの楽器にも言えることだが、吹奏楽においては全ての楽器にくまなく出番があるというわけではない。場合によっては、何十小説もの単位で休みになることがある。例えば、クラリネットやフルートといった木管楽器が中心で動くところでは、トランペットやトロンボーンはまるまる出番がないなんてこともあるのだ。
そういう時は、譜面上には休符を伸ばしたような線が引かれ、上に数字が書かれることになる。5、と書かれていたら五小節お休みです、という意味だ。トロンボーンは体力を使う楽器であるし、場合によっては休みになったタイミングでパイプの中の水を抜かなければいけないということもある。何小節休みか、という正確な把握はとても大切なのだった。
問題は、この休みの数え間違えは結構多いということ。
五小節、くらいなら「1、2、3、4……」とテンポを踏んで休みの数を正確に計算できるが。これが“二十五小節休み”とかまでになると、どうしても数え間違いが発生する。そうなるともう、己の出番はわからなくなって、変なタイミングで入ってしまったりと致命的なミスが発生するのだ。これを通称・譜面迷子と呼んだりする。
一応中学の時からトロンボーンをやっている夏樹だったが、どうしてもこの計算が苦手なのだった。全体のスコアを見たりお手本の曲を聴いたりしても、把握に時間がかかってしまう。これを間違えないようにするには、それこそ何度も頭の中で曲を回したり、みんなで合奏を繰り返して練習するしかないのだ。
トロンボーンの場合はメロディーをやることが少ない分より難しいとも言える。ズレた音を吹けばさすがに“間違えた”ことはわかるものの、どう間違えたかを把握するまでにはどうしても時間がかかるのだ。このへんは、音感に優れた奏者やプロはまったく問題にならない点なのだろうが、生憎自分はそこまでの才能はない。
「読み込みが足りてない。入るタイミングが明らかにズレてるというか、私のこと横目で見てタイミング計算したでしょぉ。パート練習で、仲間に頼りすぎるのはどうなのぉ?」
「……すみません」
「まったくもう。何か、気がかりなことでもあった?最近ちょっと様子がおかしいよぉ?」
まったく、玲奈には叶わない。正直、土日は弟がストーカーされてた手紙を見つけてしまったこともあって、譜面の読み込みやらそれ以外やらがまったく手につかなかったのだ。無論、そんなこと吹奏楽部には関係ないし、言い訳にもならないのだが。
「ひょっとして」
ちらり、と玲奈はコントラバスの方を振り返った。
「あの、八尾さんのことが気になってたりする?同じクラスだもんねぇ。超美人だし、萬屋君も男の子だねぇ」
「え」
どうやら、何かとんでもない誤解をされている。ち、違いますよ!と返したものの、これでは逆効果だ。実際玲奈も、パートの仲間達も明らかに色めいた視線で自分を見た。
「ええええ、八尾さんのこと好きなの萬屋君!」
「うわああああショック!」
「確かに美男美女ではあるけども」
「やめてよ、あたし勝ち目がなくなるよ!」
「お前ら何の話してんの!?」
完全に、恋愛的な意味で興味を持っていると思われている。あわわわ、と手を振って誤魔化すと、玲奈も玲奈で“若いっていいわねえ~”なんて頬に手を当ててうっとりしているではないか。若いも何も、一つ違いだし、アナタはどこのおばさんなのかと言いたい。
「……でもまあ、あの子は私的にはあんまりおすすめしないかなぁ」
「え」
夏樹は眼を見開く。どういう意味だろう、それは。
「悪い子ではないと思うんだけど。なんというか、本当のことを何も語ってないタイプに見えちゃうんだよねぇ。やる気があるのは間違いないんだろうけど、なんだろう……それ以外に何か目的がありそう、というか。女の勘かなぁ?」
「目的……」
「それに。……いつも笑ってるのに、なんだか目が笑ってない気がするの。何をやっていても、心の底から楽しんでなさそうだなぁって。どうしてかなぁ」
「…………」
この先輩の直感は、結構当たる。課題曲が三つ巴で揉めている時も、“多分蒼穹になりそうな気がする、なんとなく”と早々に言っていたのは彼女である。去年、銅賞を取った時も“なんとなく今回は銅賞かなあ”と結果が出る前に言っていた。そんなの、本来ピンポイントで当てられるものではないというのに。
――もう少し、気を付けておいた方が良い、のかな。
あるいは、付き合えないと振ってしまった方が良いのだろうか。嫌いなわけではないが、今誰かと恋愛を出来る余裕がないのは事実である。
夏樹としては、それで何もかもが片付く気はまったくしていないのだが。
***
学校が終わった後で、夏樹は弟が訪れたかもしれない神社に立ち寄ってみることにしたのだった。
七海高校からのルートだと、いつも自宅から通学で使っている“
「へえ……」
神社の前に到着したところで、夏樹は感嘆の息を漏らしたのだった。グーグルマップ上では小さく見えた神社だが、なかなかどうして立派な鳥居が立っているではないか。全体的にしっかり赤く塗られており、てっぺんにや三角屋根のようなものもくっついている。若干上部がカーブしていて、上から二本目の柱が横に飛び出している――ということは、明神系と言われる鳥居の一種だろうか。
確か、鳥居には大きく分けて二種類があり、二本目の柱が横から飛び出しているのが明神系で神全般を指す系統。逆に全体的に垂直に立っていて、二本目の柱が飛び出していないのが天照大神を指す系統で神明系と言われる、らしい。
なんて、こんなものは以前テレビで見た知識である。他にもいろいろ細かい区別があるのかもしれないが、夏樹に分かるのはそれくらいなものだった。感想としては“なんか派手で荘厳な鳥居だな”くらいなものである。
――意外と、ちゃんとした神様を祭ってるところ、なのかな。
石畳の道を歩き、そろりそろりと鳥居をくぐる。階段をちょっとだけ登った先に本殿があり、そのすぐ横に社務所らしきものがあるのが見えた。今日は月曜日ということもあり、自分以外に参拝客らしき人の姿はない。
これなら、神社の人に声をかけても迷惑がられないだろうか。人を探してみようときょろきょろしていた、その時だった。
「何か、御入り用ですか?」
背中から声。驚いて振り向けば、そこに神職の格好をしだ長身の男性がにこにことほほ笑みながら立っている。手には箒。掃除でもしていたのだろうか。
――ぜ、全然気配、気づかなかった。
「何か、用があっていらっしゃったのでは?この京堂神社に」
男性は微笑みながら告げたのだった。
あたしにできることならお手伝いしますよ、と。