現実は、そんなに甘ったるいもんじゃない。
イケメンの幼馴染と同棲、しかも女の方は恋愛感情がある。なんて聞けば誰しもが甘い関係を思い浮かべる。
でも実際はこうだ。
いくら同じ環境で時を過ごしても、どんなに側にいて一番に互いのことを知っていても、女の方に恋愛感情があったとしても…
向こうには、その感情が一切ない。
翼には微塵も、これっぽっちもないんだ。
漫画や小説なら相手も振り向いてくれるけど、実際はこんなもんなんだから、どうしようもない。
否定し続けて、抑えつけるしか方法はなかった。
好きじゃないと思っているまでなら、まだずっとこのまま変わらないでいられると思っていたから。
幼馴染なんて無くなってしまえと思っていた私が、今は誰よりもこの関係を壊したくない、変わりたくないと思っている。
それ以外に、翼を繋ぎとめておく方法なんて、見つからなかったから。
でもそれも、何の意味もなかったと…今やっと思い知った。
『優衣が言ったこと、忘れないでね。幸せ…』
逃したらだめだよ。
そう言った優衣の言葉を頭の中で繰り返して、ぐっと顔を膝へと押しつける。
止まるどころか増えていく涙。
熱を帯び始めた瞼に両手を当てて、思い切り表情を気にせず泣き崩れた。
「もうとっくに、逃してるよ…」
今更、私が出来ることは何もない。
翼の一番近くにいたくても、もうこれからはそれが許されない。
翼の一番になりたくても、そんな日が来ないことはよくわかっている。
私達の関係には制限時間があって、翼に好きな人が出来るまでがタイムリミットだった。
それまでに、自分の想いを自覚するべきだった。
自覚した所で翼には一生振り向いてもらえなかっただろうけど、それでも、自分の手で幸せを逃すことはなかったのに。
今更、自覚して好きだということを認めて、翼が離れて行くことを嘆いた所で…
「もう…どうしようも、ないんだ…」
小さく声に出してから、上半身を横に倒してソファへ体を預ける。
横になっても流れ続けた涙は、頬を伝うことなくソファへと染みを広げていった。
『……高橋に、勘違いされたくない』
夢の中で、翼の声が聞こえてきた。
その声が聞かせてくる内容は、前にも一度聞いたことがある内容。
いつ言われたかどうかを思い出すよりも先に、次は高橋さんの横顔が視界に入ってきた。
心配そうな、不安そうな…どこかで見たことがあるような表情。
…ああ、そうか。
私と翼が同じ家で過ごしているのを知って、不安になってるんだ。
付き合っている相手が同じ年の女の子と同棲状態で、仲が良くて、女の方は恋愛感情があったら…誰だって心配になる。
辛くなる。悲しくなる。
それが誰よりもわかるのは私だ…
「…な、おい!ひな!」
「……!」
薄らと目を開けて視界を明るくした瞬間、翼の顔が見えて驚く。
慌てて周りを見回してみたら机の上には大量のご飯。
ソファに目を向ければエプロンをつけたままの自分の姿。
あのまま泣き疲れて寝てしまっていたんだと気付いて、時計にすぐさま目を向ける。
時計の針は12時前。窓の外に目を向けてもまだ日は昇ってない。
「朝帰り…失敗してんじゃん」
「高橋が勉強で早めに帰るって言ったんだよ。それよりこの量どうしたんだよ」
「優衣が来るって言ったから作ったの。結局来れなくなっちゃったけど…いつの間にか寝ちゃってたから、完全に冷めてるね」
焦ったような表情で聞かれた質問に淡々と嘘をつく。
机に並べられた量の料理を見たら、さすがの翼も勘付きそうになる。
それを阻止して平然を装いながら上半身を真っ直ぐ起こした。
目は辛うじて腫れてない。
両袖は…まだ若干濡れている。
でも翼が相手なら、これくらい隠し通せる。
偽ることと強がることは…私の特技だから。
「で?高橋さんとのデートはどうだった?」
「…どうだろ。よくわかんない」
「え。まさかクリスマスに喧嘩したんじゃないでしょうね」
「喧嘩っていうか…俺は怒ってないけど向こうがなんか落ち込んでるっぽい」
「落ち込む…?」
「そう」
俺が学校でたまたま他の女子と話してるの見て、フラれるんじゃないかって不安になるんだって。
そう翼が淡々と言った瞬間、忘れていた夢の記憶が戻ってきた。
高橋さんの悲しそうな表情。
翼が勘違いされたくないと言った拒絶の言葉。
もう、見て見ぬふりが出来ない程、現実が近くまで押し寄せてきてる。
「出来るだけ他の女子とは話さないってことで高橋は落ちついたけど」
「…そう」
「あんま喜んだ顔とか見れなかった。どうしたら笑うのかも…まだ全然わかんないし」
心から彼女のことを想う翼に、胸がズキズキと痛む。
既に空いてしまっている穴がどんどん大きさを増していって、もう痛みに耐えられないほどまで広がってしまった。
どんなに今まで通り振る舞っても、どんなに離れたくないと思っても、どんなに延命しようと踏ん張っても…
もう、どう考えても…潮時だ。
「翼、どうやったら高橋さんを不安にさせずに済むのか教えてあげようか?」
「え、マジ?わかんの?」
「簡単だよ」
もうここには来ないで、高橋さんの側にいてあげることだよ。
そう私が笑って言った刹那、翼の目が大きく見開いた。
「…俺は終わってても高橋はまだ受験あるし」
「不安で勉強に集中出来ないからクリスマスにデートしようって誘ったんだよ。高橋さんの場合、安心させてあげた方が勉強は捗るよ」
「…毎日高橋の所に行くのはわかったけど、ここに来たらダメな理由がわからない。俺にだって帰る家は必要だろ」
「あんたの家はここじゃない。私はあんたの母親でもない。もう…」
この家には来ないで。
一番伝えたかった最後の言葉は震えてしまったけど、声が小さくても翼には伝わっていた。
翼の顔が直視出来なくても、少し下へとずらせば強く握られた拳が目に入る。
耐えるように握られた拳は、私の出した声と同じで微かに震えていた。
わかったとも、嫌だとも言わない。
何も言わない翼の代わりに音を発したのは、クリスマスが終わったことを告げる時計の長針だけだった。