邪神の存在はこの世界では広く知れ渡っている。
しかし「悪い神様がいた」だの「国を滅ぼした神様がいた」などと御伽噺のように伝えられているのみで、これらの話は誇張されていると民衆からは思われていた。
それは邪神の詳しい記述などがほとんど残っていないためである。
邪神教はその存在を世間から隠していた。
邪神の存在を確信し、その復活を果たそうとしている集団など、世間に知れてもいいことはない。
そのため邪神教の屋敷は、高い山の麓にある人里離れた深い森の奥にあった。
ももこ一行が屋敷を出てから丸一日経っていた。
大人の足では半日の距離であったが、麓の森は急な斜面が長く続く。
子供のももこがいるため、こまめな休憩をはさみ、野宿までして結局一日かかってしまったのだ。
麓はまだ続いているものの、ようやく森を抜けることができた。
ももこの目の前には日本にいた頃には見たことのない景色が広がっていた。
そこから見下ろす一面の草原は、柔らかな風になびいている。
所々に赤茶けたような色の背の高い岩が転がっていた。
その上には見たことのない小動物が、ももこと同じく景色を楽しむかのように顔を覗かせている。
高い空を見上げると、爬虫類のような、鳥のような生き物が群れを成して飛んでいる。
ももこが見ている方角には山ではなく、川が見えていた。
草原を区切るように横一線に大きな川が流れていて、たくさんの船が行き交っている。
その川に寄り添うように大きな街がある。
街は日本のものとは全然違う、石でできた家屋であった。
街のもっと先、遥か遠くにはお城のようなものが霞んで見える。
ももこはこの壮大な風景に感動すると同時に、この世界が日本とは違う世界なのだと痛感していた。
屋敷の自室から見える景色では森と空しか見えなかったのだ。
ももこは少し怖くなってしまった。
「ももこ、どうしたんだい? さぁ行こう。あそこに見えている街に天子様がお忍びでご滞在なされているんだ」
「ちょっとアレス、待ってあげて。ももこ、怖いの?」
アレスとサーシャは、森の中にいる間、ももこの話を聞いていた。
それは邪神教の屋敷での生活であったり、日本からやってきた話であったり、ももこの事情を教えてもらっていたのだ。
ももこの話はとても興味深かった。
特にアレスは、自身が所持している文献にある邪神との違いに改めて驚いていた。
一方サーシャは、ももこの境遇に同情していた。
「知らない世界だもの、怖いのも無理はないわ。ももこ、南に見えるあの街はね、商業都市ミャーミャって言って、その名前の通りとても商業が盛んな街なのよ。危険な場所もないわけじゃないけど、私達が一緒なら大丈夫よ」
「う、うん。ありがとうな、サーシャ姉ちゃん」
ももこはすっかりサーシャに懐いていた。
いや、どちらかというと懐いていたのはサーシャのほうであると言える。
たった一日のことであったが、話をしている内にももこが妹のように思えてきたのだ。
もちろん魅了の効果などではない。
一方アレスは、そんなサーシャのことを「魅了もないのに」と不思議に思っていた。
だがそれも始めのうちだけで、ももこの境遇を知ってからは恐ろしい邪神ではない、優しい普通の女の子だと気が付いた。
ももこ達は丘を降り、商業都市ミャーミャに向かって草原を歩き始めたのだった。
川に用意されていた小さな舟に乗り対岸へ。
そして商業都市ミャーミャの街に辿り着いた。
用意してあった舟はアレス達が屋敷に行くために使ったものである。
商業都市ミャーミャからすれば、川の向こうには山しかない。
川を渡るための船などないのだ。
城壁都市でもない商業都市ミャーミャはどこからでも出入りができるし、ましてや出入りする為の審査などもない。
ももこはサーシャに手を引かれながら始めてみる異世界の町並みに圧倒されていた。
遠目には見ていたが石造りの家が立ち並び、軒先に様々な売店が出されていた。
ももこが立っているのは商業都市ミャーミャのメインストリートであり、一番賑やかな通りであった。
道の中央には川から引いた水路があり、小船が往来している。
何かのフルーツの甘い香り、肉を焼いた香ばしい香り、色々な誘惑にももこは歩きながらも顔をキョロキョロさせていた。
そしてサーシャの足が止まり、握っていたももこの手を放した。
目的地についたのかと、ももこはその建物を見上げてみた。
煙突から煙が立ち上っている。扉の隙間からパンのいい香りがした。
一斤の食パンの形をした看板が掲げられており、そこには「ミャーミャニモココ」と書いてあった。
日本語に直訳すると「ミャーミャのパン」である。
メインストリートに面するこのパン屋の前でサーシャが止まったのだ。
「サーシャ姉ちゃん、お腹空いたん?」
「え? そうね、もうお昼ですものね。確かにお腹は空いてるわね」
「ははは。サーシャ、さっき食べたばかりじゃないか」
「うるさいわねっ! お腹なんて空いてないわよっ!」
「なぁ……僕の扱い、だんだん酷くなってないかい……?」
サーシャはアレスを睨みつけてから再びももこに向き直った。
その表情は優しい。
「お腹も空いたけど、このお店に天子様がいらっしゃるのよ」
「え? そうなんや? 天子様もお腹空いてはるんやね~!」
「ふふふ、そうね。じゃあ入りましょう」
アレスは少し困ったような笑顔で二人の後について店内に入った。
サーシャからの風当たりが強いこともあるが、天子がこの店に食事のために来ていると本当に信じているももこに、毒気が抜かれたような気分になっていたのだ。
店内に入ると、香ばしい香りがももこを包み込んだ。
パン屋特有の香りに、ももこは少し日本を思い出した。
この世界にもパンは存在する。
店内にあるパンは食パンやロールパンのようなものがほとんどで、惣菜パンや菓子パンの類は少ない。
あってもジャムパンくらいのものだ。
それでもももこは楽しそうにパンを見て回る。
「うわぁ~色んなパンがある! ウチ、ジャムパンはお屋敷でも食べてへんなぁ!」
「あれ、誰もいないのか。不用心な……おーいカノンナ!」
アレスはカウンターに誰もいないことに気付き、作業場へ続く廊下に向かって声をかけた。
奥から「はひー」という気の抜けそうな返事が返ってきて、パタパタという音と共に若い女性が出てきた。
カノンナと呼ばれた女性は少したれ目気味で自信のなさそうな表情、大きなエプロンと頭には三角巾、腰まである茶色い髪を緩い三つ編みでまとめている。
急いで走って来たのか、それほど距離があるようにも思えないが、カノンナは息を切らしている。
「はぁー、はぁー、あ、アレスさん。えへへーいらっしゃいです」
「俺達は客じゃない……いらっしゃいじゃないだろう。天子様は? まさか目を離してないだろうな?」
「はひー! す、すみません。そうですね、お客様じゃないですもんね……」
「はぁ……カノンナ……それで、天子様は?」
「は、はひー! う、上におられます。えへへ、天子様、今回はおりこうさんでずっと部屋で待っていてくださったんですよ~?」
カノンナはおろおろしたり、笑顔になったり、コロコロと表情を変える。
そんなカノンナに対してアレスは眉間にしわを寄せながら話を続ける。
「カノンナ……天子様に聞かれたらまた無茶な罰を受けるぞ? 今度は手伝わないからな?」
「は、はひー!」
「アレス、行きましょう。カノンナ、あくまでもここはパン屋なんだから、ちゃんとお店も見るように黒装束に言わないとダメよ?」
「はひー、すすす、すみませんサーシャさん……」
三人の会話を、ももこは少し離れた場所で見ていた。
それにサーシャが気が付いて手招きをする。
「ももこ、この人はカノンナよ。私たちと同じ聖天騎士団の騎士なんだけど……んー、何て言えばいいのかしらね」
「そうだな、カノンナはこう見えても武術に長けているんだけど……そうだな、天子様の付き人……みたいな役目かな? とにかく俺達とは違って常に天子様のそばに控えているんだ」
「は、はひー!」
「えっと、ウチ、ももこっていうん……カノンナさん、よろしくおねがいします」
カノンナはももこに挨拶されると少し中腰になってももこと目線を合わせた。
おろおろした表情だったのが、ももこの顔を覗き込んで優しい表情になった。
「はひ~~……可愛いですね。あ、私はカノンナっていいます。ももこちゃん、よろしくね」
カノンナに握手を求められ、ももこはそれに応じた。
握った手を二回、軽く上下に振る。
「はひー、本当に可愛い子ですね……アレスさんとサーシャさんってこんなに大きな子供がいたんですか? は、はひー……いくつのときの子供ですか……」
「ばっっっ! そんなわけないでしょっっ! カノンナ!」
「何を言い出すんだ! 俺もサーシャも子供ができるようなことはしてない!」
「アレスまで何を言い出すのよっ! このっ!」
「あ、あ、喧嘩はやめよ? な? サーシャ姉ちゃんも、アレス兄ちゃんも……ああ……」
「はひーーーーー!!」
顔を真っ赤にしながらサーシャがアレスをポカポカとぶっている。
それを必死に防ぎながらアレスはカノンナに答えた。
「ももこはこれでも邪神だよ! 天子様のお言いつけ通り、俺達は邪神を連れて来たんだ!」
「邪……神?」
アレスはその言葉を最後に、とうとうサーシャに馬乗りにされてしまった。
カノンナの視線がゆっくりももこへと移る。
その視線に気付いたももこは、何と言っていいのやら分からずに申し訳なさそうな笑顔で答えた。
「は……は……はひぃ~~~~~~~~~~~~~!?」