「コ、コウくん、これ…」
「……ん」
自信無さ気に俯きながら化学の教科書を手渡される。
教科書の裏にはご丁寧に蓮見雪乃と書かれていて、こいつの真面目さに鼻で笑いそうになった。
わざわざ違うクラスからこれを渡すためだけに俺の席まで走ってくる。
そんなこいつに礼を言うわけでもなく簡単な返事だけをして、自分のクラスへ帰るように促した。
俺の言うことを素直に聞いてホームルームに間に合うように走っていく後ろ姿。
それを数秒眺めた後、持っていた教科書を机の上に放ってポケットへ手を戻す。
「おい、コウ。貸してもらっといてあんな態度ひどくね?」
「うるせェ黙ってろ」
「わざわざ走って来てくれてんのに」
「頼んでねェよ」
隣の席から話しかけてくる哲にも短い返事をする。
いちいち面倒くせェ。お前には関係ないだろ。そう意味を込めて眉間に皺を寄せても哲は黙らない。
入学した当初から何故かこいつだけは俺に怯えるわけでもなく話しかけてくる。
「マジ?頼んでないのに持ってきてくれてんの?」
「……。」
「なあ、やっぱあの噂もマジなわけ?蓮見雪乃がここに転校してきた理由」
不機嫌オーラ全開の俺に向かって目をキラキラさせながら問われる。
いい加減うっとうしい。
今までの経験上、哲は素直に答えた方がすぐに違う話題へとすり変わる。
「お前のこと追っかけて転校してきたって噂」
「…ああ」
「マジで?!すっげェー!!」
そう思って素直に答えた俺が間違ってた。
あいつのことに関してだけはやたらと話を盛り上げてくる哲に嫌気がさす。
1人で盛り上がる哲に舌打ちをして席から立ち上がった。
哲の言った通り、あいつはあれから両親を説得してわざわざ俺のいる高校へと転校してきた。
お嬢様学校から落ちこぼれ高校に、あいつの両親が簡単に転校を許すわけがない。
転校を許す条件として成績は常にトップ。大学は一流の所へ受かること。
他にも条件はつけられたらしいが詳しいことは知らない。
条件を全て即行で受け入れて、迷わずあいつは俺の所へやってきた。
「おい、コウ!ホームルーム始まんぞ!」
「サボる」
「一限目は!」
「サボる」
「せっかく雪乃ちゃんが教科書貸してくれてんのに!」
だから頼んでねェって言ってんだろ。
哲に二度目の舌打ちをしながら近くの誰のかわからない椅子を蹴り飛ばす。
あいつに教科書がないと言った覚えも無ければ貸せと言った覚えも無い。
あいつは昔から、怯えながら俺に必要な物を手渡してきていた。
幼い頃のあいつの怯えた顔を思い出して、ゾクッと俺の体が震えあがる。
ヤバい。今あいつを泣かせたくて仕方ない。呼び出してくるか。
教室の扉を勢い良く開き一歩踏み出す。
その瞬間、自分の体にドンっと何かがぶつかった。
いつも通り眉間に皺を寄せたままぶつかってきた相手の胸倉を掴み上げる。
相手が誰かなんて関係ねェ。
掴み上げてからわかった相手は、今まで見たことがない女だった。
「う、あれ?あれ?あはは!浮いてる!」
俺に怯えるわけでもなく自分の体が持ち上げられてることに笑い始める。
なんだこいつ。バカじゃねェの?
そう思ったのが第一印象。第二印象は…
「あ、初めまして。今日からこのクラスに転校してきた浜口美咲です。美咲って呼んでもいいよ」
よく笑う女。それだけだった。
胸倉を掴まれてることに悲しむわけでも怖がるわけでも嫌悪するわけでもない。
ただ真っ直ぐに俺へ向けて微笑んでくる女に少しだけ興味が湧いた。
こいつはどこまでやれば泣いて怯え始めるのか。
単純にそう思ったことを実行に移す。
胸倉を掴んでいた手を一度振り上げて廊下へ叩きつけた。
その行為でさえも、ほんの少し驚いたような声だけ発してすぐに笑い始める。
「すごい力だね、私結構重いんだけどなぁ、あはは!」
「…変な女」
「えー、あはは!そうかなぁ普通だけどなぁ」
「は、浜口さん!職員室で待っててって言ったでしょう!…ッ」
走ってきた女の担任教師が俺の顔を見て怯えた表情を見せる。
そうそれだよ。普通の奴が俺へ向ける表情は。
けど今目の前にいる奴は違う。自力で立ち上がりながら未だに笑い続けてる。
「は、浜口さん大丈夫?教室に入りましょう」
「え?でもこの人は?ここのクラスじゃないの?」
わざと俺を注意せずに見逃したはずが変な女に促されて俺に視線を向ける教師。
恐る恐る俺にも戻るように促し、教師はそそくさと教室の中へ入っていった。
「ねえ、どこ行くの?」
後ろから聞こえてきた女の声は無視して廊下を歩く。
そうすれば諦めて大人しく教室の中へ戻ると思っていた。
「ねえねえ、名前なんて言うの?」
「……。」
転校初日のくせに教室へ戻るわけでもなく俺の後を追おうとしてくる。
後ろから担任の焦って止める声が聞こえても、女は戻ることなく俺の後ろについてきていた。
食堂の近くにある自販機の前まで来ても一向に離れる気配がない。
こいつは何がしたいんだよ。
そう口にする代わりにもう一度振り返って女の胸倉を掴み上げる。
制服を握った拍子に見えた女の腹が、少しあいつに似ている気がした。
「わ!これするの好きなの?」
「今すぐ笑えなくしてやるよ」
持ち上げた腕を思い切り強く壁へ叩きつける。
さっきの比じゃない強さ。
一生俺の前で笑えないように、体が覚えて忘れられなくなるように、女の背中を強打した。
さすがに痛みに耐えきれなかったのか、うっと呻き声をあげながら顔を顰める。
その一瞬の表情が、何故か無性に胸を高鳴らせた。
「さっさと笑えよ。ほら」
「うっ…ぐ、う!」
右腕で壁へ押さえつけたまま左腕で首を締めあげる。
笑った顔以外が出てくるこの一瞬の表情で、俺の中が急激に満たされ始めた。
ヤバい。結構面白いな。
そう思って自分の口角が上がってることに気付いたのは、女が気絶した後だった。