これまで、二人は軍部の執務室に住んでいるような状態だった。
謂わば、あそこが夫婦の住居であり、そこから住まいを移すのだから引っ越しが適切だろうか。
もっとも、オルキデアに関しては引っ越しではなく、帰宅になるだろうが。
「引っ越し、ですか……。言われてみればそうかもしれません」
「これから貴女は移送ではなく、引っ越しをすると思って下さい。……その方が気持ちも変わるかと」
「そうですね。引っ越しと思うと、楽しくなってきました」
アリーシャにとって、これまで経験した引っ越しはーーシュタルクヘルト家に引き取られた際の引っ越しは、決して楽しいものではなかっただろう。
本来の引っ越しは、新しい住居に移り住む楽しみや、心機一転して新しい環境で奮起する意味があるのだと教えたい。
(せめて、ここでは楽しい思い出をたくさん作って欲しい)
それはクシャースラだけではなく、オルキデアも思っていると信じたい。
人生は辛いことや悲しいことばかりではなく、嬉しいことや楽しいこともたくさんあるのだと。
楽しそうに外を眺めるアリーシャの横顔を眺めながら、クシャースラは小さく微笑んだのだった。
軍部や王城を円形状に囲むきらびやかな貴族街をジグザグに走行して、しばらくすると、車は貴族街の端に辿り着く。
王都・セイフォートは中心部に軍部や王城を持ち、そこから身分が高い順に円形状に貴族街が広がっている。
貴族街の隣は平民が円形状に広がっており、王都の端が貧民街となっている。
身分によって住む場所を分けているが、それぞれを行き来する際の決まりはない。
ただ、治安の悪い貧民街になかなか行く貴族はおらず、また貧民街の住民も物乞い以外で貴族街を彷徨かない。ーー彷徨いても、一部の貴族に手酷い扱いを受けるからだった。
そんな貴族街の端にあり、平民街でも比較的治安がいい区画と面している場所に車はやって来る。
そうして、とある二階建ての屋敷の前に辿り着くと、車は止まったのだった。
「着きました。アリーシャ嬢」
クシャースラの手を借りて車から降りたアリーシャは、帽子を被ると屋敷を見上げる。
「ここは……?」
「今日から貴女が住むことになる、ラナンキュラス家の屋敷です」
「これが、オルキデア様の屋敷ですか!?」
アリーシャが驚くのも無理はない、屋敷といっても二階建ての建物であり、部屋数もさほど多くはなかった。
貴族らしくないといえばそうであり、オルキデアらしいといえばそうとも言えた。
「貴族って聞いていたので、もっと大きな屋敷を想像していました……」
「アイツを見ての通りです。独り身なのと、なかなか屋敷に帰らないので管理が面倒だからと、父親が亡くなってから、当時住んでいた屋敷を手放して、この屋敷を購入したらしいです」
この屋敷を購入したもう一つの理由としては、ここが軍部に近く、クシャースラとセシリアの夫婦が住む屋敷が近いからというのもあるらしい。
またセシリアの実家であるコーンウォール家もこの近くにあり、屋敷の管理を頼む都合上、この立地が丁度良かったらしい。