「よぉ! いるか?」
アリーシャと契約結婚を決めてから五日後の夕方。
ノックもなく扉が開けられたかと思うと、そこには茶封筒を手にした親友の姿があった。
「なんだ、クシャースラか」
「なんだ、は無いだろう。仕事を終わらせて、その足で来たというのに」
言われてみれば、クシャースラは軍服の襟までボタンをきっちり留めた姿だった。おそらく、今まで仕事で外に出ていたのだろう。
それに対して、今日一日執務室で書類仕事をしていただけのオルキデアは、軍服の上着を脱いだシャツ姿だった。
執務室に入ってくるなり、クシャースラはどかっと音を立ててソファーに座った。
その時、執務室に併設する仮眠室ーー最近ではほぼ自室と化されてしまった、からアリーシャが出てきた。
「クシャースラ様」
「こんばんは。アリーシャ嬢。ご結婚おめでとうございます」
協力を求める都合上、クシャースラにはアリーシャと結婚した話をしている。
始めこそ祝ってくれたが、オルキデアが結婚した理由を話すなり、大きなため息を吐かれたのは記憶に新しい。
「あ、ありがとうございます……! でも、一時的なものですので」
「だそうだ。利害関係が一致したから、結婚しただけにすぎん」
それにいずれは別れる、という一言は、胸の中でだけそっと付け足す。オルキデアが言葉にしなくても、さすがに十年来の親友には伝わったのか、クシャースラはどこか寂しげな笑みを浮かべたのだった。
「そうだったな。けど、おれから見たら、充分、二人はお似合いなんだけどな。この前もそこの廊下で熱烈な会話を交わしたんだろう。腰を抱いて、アリーシャ嬢にキスまでして」
クシャースラの言葉にオルキデアは顔が引き攣る。おそらく、この間のティシュトリアが来た時のアリーシャとのやり取りを言っているのだろう。横目でアリーシャを見ると、彼女も恥ずかしそうに頬を染めて目を逸らしていた。
「なぜ、その話を知っているんだ……」
「あの時、たまたま近くを通りかかった兵や執務室の中でお前さんたちの話を聞いていた士官から噂が広まったんだよ。それにしても、どうして当人が知らないんだ。『あのラナンキュラス少将にも春が来た……』って、軍部中で噂になっているのに」
思い返せば、あの時、その場に居合わせたオルキデアの部下には箝口令を敷いたが、廊下を通りかかった者やティシュトリアと話した廊下に面した執務室を使っている士官たちには何も言わなかったのを思い出す。
どうりで、ここ最近部下達が何か言いたげな顔をしていた訳だ。皆、この話を知っていたからだろう。
「そうだな……。あまり気にしてなかったからな」
最近までアリーシャやティシュトリア関係で頭が一杯になっていたが、外に出ると、様子を伺う様に見てくる者が居たような気がしなくもなかった。噂が気になるが、オルキデアが怖くて誰も声を掛けてこなかったといったところだろうか。
すると、アリーシャが話題を変える様に、「あの!」と声を掛けてくる。
「私、食堂に行って、コーヒーを貰ってきますね」
「ありがとうございます。アリーシャ嬢」
「ああ、頼んだ」
顔を輝かせながら「はい!」と返事をして執務室から出て行くアリーシャを二人で見送る。扉が閉まると、傍らの親友が口を開いたのだった。
「そういえば、今日は廊下に誰もいなかったが、今も監視をつけているのか?」
「いや、つけていない。だが、他の兵から守るという意味では、影から見守るように頼んでいる。アリーシャに粗相をする奴がいないとは限らんからな」
結婚してからは、アリーシャが脱走しない様に廊下に部下を立たせて、監視させるのを止めていた。
結婚した以上、もう逃げ出す心配は無いだろうという考えと、アリーシャに信頼を示す誠意の為だった。
ただ、監視ではなく、他の兵の危険から守るという意味で、アリーシャが執務室を出る際には、影から見守るように頼んでいた。
この時間帯だとラカイユだろうか。何かあればすぐに報告が来るだろう。
「やるとしても貴族どもだろう。平気で連れのメイドや、軍部内の女性秘書らに手を出すのは」
貴族出身の兵士は自分の身の回りの世話をさせる為、常に使用人やメイドを連れていた。
気に入らないことがあれば憂さ晴らしに八つ当たりし、欲求不満な時は男としての欲を満たす為に。
そんな馬鹿共は、時には他の貴族のメイドや文官付きの女性秘書官にも手を出していた。
そういった事件が軍部内では日常茶飯事であり、取り締まってもキリが無いと半ば放置されていた。
「そうだな。だが貴族の阿保共や馬鹿共以外でも、誰であれ、アリーシャに手を出してみろ。……死んだ方がマシというくらいに痛めつけてやる」
「……すっかり、アリーシャ嬢に惚れ込んでるな」
呆れ顔のクシャースラに、オルキデアは「惚れているわけじゃない」と即座に否定する。