「言ってなかったか?」
「言ってない。断じて言ってない! 記憶喪失の民間人としか、おれは聞いてない!!」
そんな親友の反論を聞き流しながら、オルキデアは廊下に控えていた新兵ーー元はアリーシャが脱走した時に備えて見張りにつけていた部下だった。に、二人分のコーヒーを頼む。
その間に、クシャースラは「聞いてないぞ……」と小声を言いながらも、崩れた書類の山を直して、ソファーとテーブルの上を片付けてくれたのだった。
どうにかして二人分のスペースを確保したところで、芳しい香りが漂う淹れたてのコーヒーを持って、新兵は戻ってきた。
オルキデアは礼を言って、二人分のコーヒーが乗ったトレーを受け取ると、新兵を持ち場に戻るように指示した。
まるで主人に褒められた犬の様に、新兵は目を輝かせると、二人の将官に敬礼して部屋を出て行ったのだった。
「さてと、おれに協力しろと言ってくる以上、詳細は説明してくれるんだよな」
ソファーに座ってようやく落ち着いたクシャースラは、身体の前で腕を組むと、じっと灰色の目を向けてくる。
その対面に座ったオルキデアは、コーヒーを一口飲むと、カップをテーブルの上に置いたのだった。
「ああ、そうだな」
念には念を入れて、オルキデアはハルモニア語で、アリーシャを保護してから、今まであった大まかな内容を話す。
他の兵は勿論だが、この話はアリーシャにも聞かれたくなかった。
アリーシャがペルフェクト語だけではなく、ハルモニア語も理解出来るのかはわからない。
ただ他の兵に聞かれても、内容まで聞かれる可能性が低いという点では、ハルモニア語は丁度良かった。
少なくともハルモニア語なら、将官以下の兵で、理解出来る者は少ない。
ハルモニア語も昇進に関わってくるので、階級が将官以上の兵は話せる必要がある。
少将であるオルキデアは勿論だが、オルキデアと同じ階級であるクシャースラも、ハルモニア語は普通に話せて、読み書きも難なく出来ていた。
また将官になると、専用の執務室を与えられるようになる。
このオルキデアの執務室があるフロアにも、将官以上の兵の執務室は何室かあるが、今はオルキデア以外は不在であった。
クシャースラの執務室は別の練にあるが、そっちも当直の兵を除いて、まだほとんどの兵が出勤していないだろう。
遠征に出ている者や休暇で不在にしている者、自宅や軍部近くにある独身寮に戻っていてまだ出勤していない者など、不在の理由はそれぞれあるが、当直に関係なく、普段から執務室に寝泊まりして、朝早くから居るのは、オルキデアぐらいであった。
オルキデアの上官であるプロキオンの執務室は更に上のフロアにあるが、部屋の主であるプロキオンは自宅に帰っており、今日は昼頃に軍部に来るとのことだった。
「アリーシャか……。随分と、上手いこと名付けたものだな」
空になったコーヒーカップを前に、クシャースラは嘆息する。
「名付けた時は、まさかここまで実名に近いとは思わなかった。せいぜい、親かペットの名前だと思っていた」
正体がわかったのは、自分の名前さえ分からなかった彼女に、「アリーシャ」と名付けた日、国境沿いの基地で借り受けていた執務室に戻った時だった。
執務室に届けられていた軍の諜報部隊が入手して、将官以上の兵向けに配布されたシュタルクヘルト発行の新聞の中に、見つけたのだった。
オルキデアはそっと呟いた。
「アリサ・リリーベル・シュタルクヘルトか……」
アリーシャの正体は、アリサ・リリーベル・シュタルクヘルト。
シュタルクヘルト家の九番目の子供ーーシュタルクヘルト共和国で廃止された王族の血を継ぐ者だった。