それからしばらく経ったある日。霊斬は少しずつ身体を動かせるようになったが、店を閉めていた。
にもかかわらず、戸を叩く音がする。
「開いていますよ」
霊斬は言いながら、表に向かう。
「久しいですね」
姿を見せたのは依頼人の武士。
「では、奥に」
霊斬は武士を案内する。
霊斬は正座を、武士は胡座をかいて座ると、本題に入った。
「実に見事な手際でした。兄は医者にいったきり。兄の妻は心を病んだとのこと。ああ、実に愉快です」
その様子を冷ややかに見ながら、霊斬は愛想笑いを浮かべる。
「そうでございますか」
「成功したお代を」
武士は小判十五両を渡す。
霊斬は黙ってそれを受け取り、袖に仕舞う。
「ひとつ、お尋ねしたいことが」
「なんでしょう?」
笑顔のまま、武士が応じた。
「……実の兄に刃を向けましたね?」
「なぜそう思われたのですか?」
武士は見破られたことに、動揺する。
「刀についていた血糊。従六殿の左肩に、晒し木綿が巻かれていたからです」
霊斬は冷ややかな声で告げた。
「……そのとおりです。酒に酔った勢いで、少々やりすぎました」
言葉とは裏腹に、喧嘩をして叱られた子どものように、笑ってみせる。
去っていく武士を見送った後、霊斬は思う。
――実の兄を斬りかけたというのに、清々したというあの表情。人とはなんと恐ろしい。ほんの少し暗い顔をすれば、まだ人らしいと思える。しかしそれすらないと、人ではないのかと思えてしまう。
さらに時が経ったある日。霊斬は店を閉めたまま、ぼんやりと考え事をしていた。
すると、荒々しく戸を何度も叩く音が聞こえる。
「なにごとですか?」
霊斬が戸を開ける。
そこには定町廻り同心がいた。
「いったいなんの用でございますか?」
「〝因縁引受人〟という者を知っておるか?」
「いえ、存じ上げませんが……。その方がどうかなさったので?」
「少し前、お家が潰れるまで暴れまわったらしい。幸い死人が出なかっただけよいが」
「そうでございましたか」
霊斬はうなずく。
「
「かしこまりました」
定町廻り同心が立ち去った。
「驚いた」
霊斬は店の中で呟く。
――あれだけ店で噂になっていれば。こうなるのも仕方ないのかもしれない。
それから数日後、戸を叩く音が聞こえる。
「開いておりますよ」
霊斬が顔を出すと、怖い顔をした岡っ引きと目が合う。
「これは、親分。いったいなんのご用で?」
霊斬は動じることなく尋ねる。
「今から一月前くらい武士が何度か、ここを出入りしてるって聞いてなぁ。たいてい夕方に。あんた、なにか隠していやしないかい?」
霊斬が愛想笑いで答える。
「それは刀の修理を、依頼なさった方々ですよ」
「そうか。宗崎家で怪しい者を見たんだが、心あたりないかい?」
「ありません」
即答である。
「怪我してるようだけど、なにか面倒事にでも巻き込まれたかい?」
「いえ、そういうわけではございません」
その問答に割って入る声があった。
「おい、
「す、すいやせん!」
「はい」
頭を下げる五朗と代わり、霊斬はうなずく。
「その怪我はなんだ?」
「なんでもございません」
「自身番へ連れていけ!」
「旦那! いったいどういうことで? こいつを疑ってんですかい?」
「武家で有名な鍛冶屋だぞ。そんな奴が怪我をしているなど、怪しいに決まっておろう!」
霊斬は抵抗せず縛につき、自身番に連れていかれた。
店から自身番までは歩くとなると、かなり遠い。
この日は霧雨が降っていたので、いきかう人々は傘をさしたり、編み笠で凌いでいる人もいた。
霊斬は目を細め、まっすぐ前を向いて歩いていく。
法に触れたのかという侮蔑と、哀れに思う人などもいたが、野次が飛んでくる。
「あんたの店のものは全部偽物だったのか?」
「武士に頭を下げ続けて、商人としての矜持はねぇのか!」
「その美貌を使って、女達を骨抜きにするだけじゃ飽き足らず、手をつけたって言うのかい!」
「あんた、根っからの商人じゃねぇだろ! 今の地位になるまでどれだけ手を汚したんだ?」
その言葉を聞きながら、霊斬は思う。
――店のものが偽物? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。じゃあ、その目で品を見たことあるのかよ? ないくせに難癖つけてくるな。失せろ。
――商人としての矜持? 意地でも見せろってか? たかが町人にそんなこと言われてもな。俺は武士が大嫌いだよ。
――おいおい。俺は女癖が悪いと噂にでもなってんのか? 心外だな、俺は女にうつつを抜かす阿呆ではない。それに、女遊びも嫌いだ。
――確かに俺は、根っからの商人じゃあない。けどな、俺の実力なのにそれをまるで不正をしたと言われるのは、納得いかねぇよ。いいからそんなこと言わずに、引っ込んでろ。
野次の数々に心の中で反論しつつ、霊斬は美しい顔を歪めた。
霊斬は取り調べを受けることになった。縄で両手を縛られ、上着を脱がされる。晒し木綿も外され、傷だらけの引き締まった上半身があらわに。