侵される日常《四》

 それからしばらく経ったある日。霊斬は少しずつ身体を動かせるようになったが、店を閉めていた。

 にもかかわらず、戸を叩く音がする。

「開いていますよ」

 霊斬は言いながら、表に向かう。

「久しいですね」

 姿を見せたのは依頼人の武士。

「では、奥に」

 霊斬は武士を案内する。

 霊斬は正座を、武士は胡座をかいて座ると、本題に入った。

「実に見事な手際でした。兄は医者にいったきり。兄の妻は心を病んだとのこと。ああ、実に愉快です」

 その様子を冷ややかに見ながら、霊斬は愛想笑いを浮かべる。

「そうでございますか」

「成功したお代を」

 武士は小判十五両を渡す。

 霊斬は黙ってそれを受け取り、袖に仕舞う。

「ひとつ、お尋ねしたいことが」

「なんでしょう?」

 笑顔のまま、武士が応じた。

「……実の兄に刃を向けましたね?」

「なぜそう思われたのですか?」

 武士は見破られたことに、動揺する。

「刀についていた血糊。従六殿の左肩に、晒し木綿が巻かれていたからです」

 霊斬は冷ややかな声で告げた。

「……そのとおりです。酒に酔った勢いで、少々やりすぎました」

 言葉とは裏腹に、喧嘩をして叱られた子どものように、笑ってみせる。

 去っていく武士を見送った後、霊斬は思う。

 ――実の兄を斬りかけたというのに、清々したというあの表情。人とはなんと恐ろしい。ほんの少し暗い顔をすれば、まだ人らしいと思える。しかしそれすらないと、人ではないのかと思えてしまう。



 さらに時が経ったある日。霊斬は店を閉めたまま、ぼんやりと考え事をしていた。

 すると、荒々しく戸を何度も叩く音が聞こえる。

「なにごとですか?」

 霊斬が戸を開ける。

 そこには定町廻り同心がいた。

「いったいなんの用でございますか?」

「〝因縁引受人〟という者を知っておるか?」

「いえ、存じ上げませんが……。その方がどうかなさったので?」

「少し前、お家が潰れるまで暴れまわったらしい。幸い死人が出なかっただけよいが」

「そうでございましたか」

 霊斬はうなずく。

の者の情報が、入ったらでいい。なんでもよいから自身番へ報告を」

「かしこまりました」

 定町廻り同心が立ち去った。

「驚いた」

 霊斬は店の中で呟く。

 ――あれだけ店で噂になっていれば。こうなるのも仕方ないのかもしれない。



 それから数日後、戸を叩く音が聞こえる。

「開いておりますよ」

 霊斬が顔を出すと、怖い顔をした岡っ引きと目が合う。

「これは、親分。いったいなんのご用で?」

 霊斬は動じることなく尋ねる。

「今から一月前くらい武士が何度か、ここを出入りしてるって聞いてなぁ。たいてい夕方に。あんた、なにか隠していやしないかい?」

 霊斬が愛想笑いで答える。

「それは刀の修理を、依頼なさった方々ですよ」

「そうか。宗崎家で怪しい者を見たんだが、心あたりないかい?」

「ありません」

 即答である。

「怪我してるようだけど、なにか面倒事にでも巻き込まれたかい?」

「いえ、そういうわけではございません」

 その問答に割って入る声があった。

「おい、ろう! いつまで話している! そなたが幻鷲か」

「す、すいやせん!」

「はい」

 頭を下げる五朗と代わり、霊斬はうなずく。

「その怪我はなんだ?」

「なんでもございません」

「自身番へ連れていけ!」

「旦那! いったいどういうことで? こいつを疑ってんですかい?」

「武家で有名な鍛冶屋だぞ。そんな奴が怪我をしているなど、怪しいに決まっておろう!」

 霊斬は抵抗せず縛につき、自身番に連れていかれた。


 店から自身番までは歩くとなると、かなり遠い。

 この日は霧雨が降っていたので、いきかう人々は傘をさしたり、編み笠で凌いでいる人もいた。

 霊斬は目を細め、まっすぐ前を向いて歩いていく。

 法に触れたのかという侮蔑と、哀れに思う人などもいたが、野次が飛んでくる。

「あんたの店のものは全部偽物だったのか?」

「武士に頭を下げ続けて、商人としての矜持はねぇのか!」

「その美貌を使って、女達を骨抜きにするだけじゃ飽き足らず、手をつけたって言うのかい!」

「あんた、根っからの商人じゃねぇだろ! 今の地位になるまでどれだけ手を汚したんだ?」

 その言葉を聞きながら、霊斬は思う。

 ――店のものが偽物? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。じゃあ、その目で品を見たことあるのかよ? ないくせに難癖つけてくるな。失せろ。

 ――商人としての矜持? 意地でも見せろってか? たかが町人にそんなこと言われてもな。俺は武士が大嫌いだよ。

 ――おいおい。俺は女癖が悪いと噂にでもなってんのか? 心外だな、俺は女にうつつを抜かす阿呆ではない。それに、女遊びも嫌いだ。

 ――確かに俺は、根っからの商人じゃあない。けどな、俺の実力なのにそれをまるで不正をしたと言われるのは、納得いかねぇよ。いいからそんなこと言わずに、引っ込んでろ。

 野次の数々に心の中で反論しつつ、霊斬は美しい顔を歪めた。


 霊斬は取り調べを受けることになった。縄で両手を縛られ、上着を脱がされる。晒し木綿も外され、傷だらけの引き締まった上半身があらわに。