それから数日後。左腕に晒し木綿を巻いた霊斬が、そば屋に顔を出す。
「入るぞ」
無性にそばが食べたかった。本当は傷が治るまではやめておくつもりだったが、気が変わった。
「幻鷲さん、聞いたか?」
「なにを?」
「〝因縁引受人〟なんて奴が、いるらしいぜ」
「なんだ、それは?」
霊斬が首をかしげると、常連客が瓦版を見せてくれた。
瓦版には〝挙兵を目論んだ武家、因縁引受人によって暴かれる〟と書かれていた。
――前は結構派手にやったからな。
「そんな奴がいるのか」
霊斬は内心で思いながらも、
「本当にいるのなら、会ってみたいよな~」
「ってことは、代わりに恨みとか晴らしてくれるのかな?」
「じゃ、お前、恨んでいる奴とかいるの?」
「いない」
「頼みたいかも」
常連客らが次々に喋る中、霊斬は空いているいつもの席に腰を下ろした。
――頼んでもろくなことがないぞ。
霊斬は内心で溜息を吐く。
「千砂ちゃんだったら、どうする?」
「私はやめておきます」
「そっか~」
常連客はしょげた声を出す。
――どうして落ち込む?
千砂と霊斬は思うものの、口には出さない。
「おまちどうさま」
千砂は言いながら、常連客を眺める。
常連客らは未だにはしゃいでいる。
実在したらどんな依頼をするか、という話で盛り上がっている。別の話題に流れていく様子もない。
「まったく、馬鹿な連中だねぇ」
千砂が小声で嗤った。
「そうだな」
霊斬も同意しながら、そばを啜った。
店に戻ると霊斬はそば屋の様子を思い出し、溜息を吐いた。
あそこまで噂が広がっているとは、思いもしなかった。
「実在するかどうか怪しいから、あんなにもはしゃぐのだろうな」
霊斬は呟きながら、内心でこう思った。
――実在したら、あいつらはどんな反応をするのだろう?
奇異の目か、好奇心に駆られるのか、それとも怯えるか。その三者だろう。
そんなことを思いながら、外しておいた三角巾をつけ直す。
ぼんやりと天井を眺めた。
次郎の依頼で受けた傷はすっかりよくなった。
格子窓から見える日の高さから、昼だと気づく。いったん中断して、霊斬はそば屋へ足を向けた。
「いらっしゃいませ! 幻鷲の旦那」
霊斬は千砂の後に続いて、いつもの席に腰を下ろす。
「いつものを」
「かしこまりました」
千砂は言いながら、奥へと戻っていく。
「幻鷲さん! つかぬこと聞くが、好きな女はいないのかい?」
霊斬は思わず、飲んだお茶で
「ごほっ! 急になにを言い出すんだ。……いねぇよ」
常連客の一言を返した。
「こんなにかっこいいのに、なんで女の一人いねぇんだよ。もったいねぇ」
「黙れ」
「おお、怖っ!」
「旦那を怒らせて、どうするんですか!」
「そんなんじゃないって」
「余計なことを言わなければ、いいだけだろう」
けろっと機嫌を直した霊斬は、千砂に声をかける。
「そうですか。もう怒らせたりしないでくださいね?」
千砂は霊斬のところにそばを置く。
「なんだか二人とも、仲よさそう」
「ご冗談を」
千砂が苦笑した。
それに同意するように、霊斬もうなずく。
その常連客は他の客に同じ話題を振り、盛り上がっていた。
霊斬はその様子を、そばを啜りながら眺めた。
それからしばらくして、千砂は仕事を終え、家に戻ってきた。
「疲れた」
独り言を言いながら、簡単な夕餉を準備し、一人で
湯屋へ向かい、身体を清める。傷ひとつない肌でないことが気がかりだが、仕方がないと諦め風呂を済ませる。
家に戻り、裏に干してある、忍び装束と手拭いの乾き具合を確かめ、取り込む。
明日の仕事の準備を簡単に済ませると、布団に入り、眠りについた。
そのころ霊斬は夜風が気持ちいいと思いながら、飯屋に向かっていた。
暖簾をくぐると、元気な声が聞こえてきた。
「いらっしゃい! おや、幻鷲さんじゃないか!」
「久し振りだな」
「いつもの場所でいいかい?」
「いや、今日はここがいい」
霊斬は大将の正面に腰かける。
大将は四十代後半くらいだ。
「ご注文は?」
「酒」
「あいよ」
「前にきたのはいつだった? 三年前か?」
「ああ」
「幻鷲さんは変わらんな。俺は少し歳食っちまったよ」
「なにを言っている。そんなことはないぞ」
「ほらよ」
大将は酒を出す。
霊斬は無言で受け取り、盃に注ぐ。
「幻鷲さん」
「ん?」
酒を呑みながら、霊斬が首をかしげる。
「酒、似合うな」
「そうか?」
霊斬は思わず、酒と大将を見比べる。
酒を呑む霊斬は、大将との会話を楽しんだ。