その後、しばらくリーヴとの会話を楽しんでいたハルは、彼女をガルディンとアイラに改めて紹介するため、二人がいるコンピュータールームに向かっていた。
「……ハル。どこへ、行くの……?」
「うん。俺たちが今やっていることを、キミにも知ってもらいたいと思ってね。大丈夫。キミになにかをさせようなんて考えていないから、その点は安心していいよ」
ハルと手をつなぎながら、リーヴは彼に連れられる形で廊下を歩いていた。
その足取りは比較的しっかりとしており、睡眠学習の名目で彼女の体力を回復させたことも、良い方向に働いている様子だった。
「失礼します。アイラさん、ガルディンさん、ちょっとお話があるんですが」
コンピュータールームのドアを開けたハルは、中にいるはずのアイラとガルディンに声を掛けた。その判断は正しかったらしく、端末の操作をしていた二人は一旦その手を止め、入口にいるハルとリーヴの姿を認めた。
「おっ、ハル。どうやら、その子の体調も戻ったようだね。で、話っていうのは、一体なんだい?」
「はい。えぇと、お二人に、この子のことを改めて話しておこうと思いまして」
アイラが用件を尋ねると、ハルはこれまでの経緯をかいつまんで説明した。睡眠学習プログラムによって言葉を話すことができるようになったこと、名前を思い出すことができない彼女に、自分がリーヴという名前を付けてあげたこと、などなど。
「……なるほど。ひとまず無事なのはよかった。来たばかりで嫌な場面に遭遇してしまっては、我々としても気分の良いものではないからな」
「そうですね。とりあえず、この子の世話は当分の間俺が見るということでいいですか?」
ガルディンが落ち着いた口調で返事をした。かれが懸念していたであろう最悪の事態は、ハルの手によって回避することができた。それだけでも、ガルディンにとっては安堵するに値する内容だった。
「あぁ、それは構わん。キミが助けたのであれば、その後の面倒もキミがやってくれた方がよいだろう」
ハルの申し出に対し、ガルディンは特に反対する意向を示すことはなかった。アイラに目線で確認を求めるが、彼女もまた同じ意見だったようだ。
「……ハル。この、光っているの、なに……?」
「あぁ、これはコンピューターっていってね。俺たちの代わりに、色々なことを処理してくれる機械なんだよ」
リーヴが近くにあるディスプレイを指差しながら疑問を発した。ハルがそれに答えると、リーヴは小さく頷きながら理解したという素振りを見せた。
「へぇ、この歳で、もうこんなコンピューターに興味を示すなんてね。それじゃ、この子にこの部屋のこと、もう少しだけ知ってもらおうかな」
「うむ、それがいいだろう。すぐにオペレーターとして使うつもりはないが、知っておいて損はないだろうからな。そういうわけだ、ハル。お願いできるか?」
そんなリーヴの様子を見ていたアイラとガルディンは、彼女にこのコンピュータールームのことを話すようハルに提案した。
「もちろんですよ。それじゃ、リーヴ。俺がこの部屋を案内してあげるね」
「……うん。ありがとう、ハル……」
ハルは二つ返事でこれを快諾すると、早速リーヴにコンピュータールームのことを一つ一つ説明し始めた。
決してコンピューターのことに通じているというわけではなかったが、それぞれの端末がどのような役割を果たしているのか、という程度のことはハルにも理解することができた。
「……これは、キーボードっていって、自分がやりたいことなんかを、コンピューターに教えたりするために使うんだよ。こっちはマウスっていって、このディスプレイに映っている、このカーソルを動かすために使うんだ。こんな具合にね」
「……スゴイ。ハル、物知り……」
ハルの説明を聞きながら、リーヴは終始感心しきりだった。ハルにとってはこの程度はもはや常識レベルなのであるが、記憶喪失状態にあるリーヴにとっては、目に映るもの全てが新鮮に感じられるのだろう。
「それにしても、リーヴっていったっけ。あの子、さっきからずっとハルのそばを離れようとしないね」
「そうだな。あの子も、恐らくハルのことを自分の命の恩人だと思っているのだろう。当面の間、我々が入り込む余地はなさそうだな」
そんな二人のやり取りを見ながら、アイラとガルディンは二人がまるで本物の親子であるかのような錯覚を抱きそうになっていた。
実際、コンピュータールームに入ってから、リーヴはハルのそばを片時も離れようとしない。
よほどハルのことが気に入ったのか、それとも自分にはハルしか頼れる人がいないと思っているのか分からないが、今のところ、彼女がハル以外の人間に懐くような気配はあまり感じられなかった。
「なんだ? 警報か?」
その時、コンピュータールームに突如としてけたたましいサイレン音が鳴り響いた。それは高レベルの危険がこのアジトに迫ろうとしていることを示すものだった。
「き、キャアッ!」
「あっ、だ、大丈夫、リーヴ? どうしたんですか、急に?」
不意打ちともいえるサイレン音は、リーヴの全身をすくませるには十分な衝撃だった。ハルはとっさにリーヴを抱き支えながら、アイラとガルディンになにがあったのかを尋ねた。
「巨大な生命反応がこっちに近づいてきている。この反応は、巨獣か!」
それは生命反応のようだった。しかも、巨獣が接近している可能性が高い。先程のサイレン音の意味を考えれば、それが妥当な判断だった。
「き、巨獣ですか? か、数は?」
「数は一つ。他に生命反応はない。だが、たとえ一匹であっても、巨獣が来たとなると厄介だな……」
たった一つの生命反応であっても、それが巨獣であるということになれば、自体はなおのこと厄介になる。
これが政府の監視員たちならば、まだ対抗手段はいくらでもあるだろうに。巨獣が相手となると、今のところ自分たちにできる対抗手段はアイラが開発した幻覚薬程度しかない。
「お、俺、様子を見に行ってきます。多分巨獣でしたら、この地下シェルターに入ることはできないと思いますが、政府の監視員たちがそれに便乗しないとも限りませんし」
ハルは外の様子を確かめるため、コンピュータールームを出ようとした。しかし、リーヴが彼のズボンを掴み、これを制しようとした。
「……ハル、ダメ。行かないで……」
そう訴えるリーヴの表情には、不安の色がはっきりと浮き彫りになっていた。どのような非常事態であろうと、彼女にとってはハルのそばにいられないことの方がよほど非常事態なのだ。
「リーヴ。でも、ここに危険な怪物が来ようとしているかも知れないんだ。その様子を確かめないと、みんな安心できないだろう?」
「……じゃあ、ワタシ、ハルと、行く……」
状況が悪化する前に対処しなければならないとハルが説明しても、リーヴの態度が変わることはなかった。それどころか、ハルのそばから離れないという意思を、さらに明確に示すことまでしていた。
「分かったよ。それじゃ、俺と一緒に行こうか。だけど、危ないと思ったら、すぐに逃げるんだよ。いいね?」
「……うん、分かった、ハル……」
そして、ハルはリーヴと共に外の様子を確かめるべく、コンピュータールームを後にした。途中で念のために防寒着に着替えた時、リーヴの体型に適した防寒着がないことに思い当たった。
しかし、リーヴは寒さには慣れているからと言い、ドレス姿のままハルの後を付いていった。
「よし、今からこの扉を開けるからね。キミは、少し下がっていて」
入口の前までやってきたハルは、リーヴを後方に下がらせると、扉の横にあるセキュリティーシステムを操作した。すると、システムから警告が発せられ、扉を開けることはできないと言われた。
「そうか。だけど、そうも言っていられない。ここは『無視』っと……」
ハルは『無視』のボタンを押し、扉を強制的に解錠した。すぐに、鈍い音を立てながら扉がゆっくりと開かれていくのが見えた。
「よし、行こう、リーヴ。この先はとっても寒いからね。気を付けるんだよ」
「……うん、大丈夫だよ、ハル……」
扉が開いたのを確認するや否や、リーブは再度ハルのそばに寄り添うような位置を取った。ハルはそのままリーヴを連れて扉の外に躍り出た。
次の瞬間、全身を切り裂くような冷気と寒風が吹きすさんできた。防寒着を着ていなければ、今頃自分の身体はこの冷気と寒風によって一瞬のうちに凍り付いていたことだろう。
「クッ。相変わらず、外は猛吹雪ってわけか。リーブ、絶対に俺のそばから離れちゃダメだよ」
「……うん、ありがとう、ハル……」
ハルはとっさにリーヴを抱き上げ、自分のそばから決して離れることがないようにした。リーヴも、小さくハルにお礼を言いながら、その表情はどこか喜んでいるような印象があった。
リーヴを抱き上げたまま、洞窟の入口に向かうハル。容赦なく吹き付ける猛吹雪をその身に受けながら、ハルはあることに疑問をよぎらせていた。
「それにしても、リーヴは本当に大丈夫なんだろうか……? 確かに寒がっている様子はないみたいだけど、もしかして、生まれつき寒さに強い体質なのかな……?」
リーヴが寒さに強いのは、元々そういう体質なのか、それとも誰かに肉体を改造された結果なのか。
とはいえ、それを解き明かすには今少し時間がかかるだろし、なにより当面の問題である巨獣を追い払うことを今は優先しなければならない。
「クッ、なんて猛吹雪だ。っていうか、この間より、さらに強くなっているような気がするんだが……?」
ハルが洞窟の入口の前まで来ると、外はほぼ視界ゼロの圧倒的な暴風雪だった。これでは、防寒着やゴーグルを付けていたとしても、外に出るのはあまりに危険すぎる。
「とりあえず、巨獣がどこにいるか確認しないと。だけど、これじゃ前が全然見えないな……」
「……ハル、向こう。なにか、いるよ……」
ハルが目を凝らして純白の景色を見ていた時、リーヴが前方を指差しながら、ハルに何事がを告げようとする素振りを見せた。
「えっ? どうしたの、リーヴ? 向こうに、なにがあるの……?」
ハルがリーヴに従うように、前方に改めて視線を向けた。一見して大量の雪が吹きすさぶ光景しか映っていないように思われるが、その向こうになにかがあるのを、リーヴは感知したのだろうか。
ハルがさらに前方に視線を凝らしたその時。雪の壁の向こうで、なにか巨大な影が動くのを発見した。
「んっ? 今なにか動いたような……? もしかして、あれがさっきガルディンさんが言っていた巨獣なのか……?」
正体までは判然としなかったが、あれほどの巨大な影がうごめいているということは、少なくとも巨獣であることに疑義の余地はない。
「この場所が巨獣たちにバレると面倒だな。でも、今のところ、ここをカモフラージュできるようなものは見当たらないし……」
この入口の前に大量に積もっていた雪は、ガルディンがダイナマイトで爆破してしまったし、それ以外に入口を塞ぐことができるものは、この周囲にはありそうにない。
政府も巨獣たちの動きを警戒している以上、この場所が巨獣たちに知られてしまうということは、政府にもその情報が行き渡ってしまう可能性があるということを意味する。
「……大丈夫、ハル。ワタシに、任せて……」
と、その時。ハルに抱き上げられていたリーヴが、なにかを思い立ったかのように右手を前に突き出した。一体なにをするつもりなのかとハルが疑問をよぎらせようとした時、入口に純白の壁のようなものが出現した。
純白の壁はあっという間に入口全体に広がり、ものの十秒も経たないうちに入口を完全に塞いだ。巨獣の気配はおろか、暴風雪でさえもその純白の壁を突き破ることはできなかった。
「こ、これは……?」
「……だから、大丈夫、言った……。ハル、もう、危なくない、よ……」
突然の出来事に呆然とするハルだったが、当のリーヴはさも当然のことと言わんばかりに、ハルを安心させる言葉を掛けた。
確かにリーヴのおかげで巨獣の危機を回避することができたのは事実だったが、さてこれをアイラとガルディンにどのように説明すればよいのだろう。
「そ、そうだね……。ありがとう、リーヴ。それじゃ、とりあえず、二人のところに戻ろうか」
「……うん、分かった。あっ、あの……」
ひとまず、ハルはコンピュータールームに戻ろうと思った。すると、リーヴがなにかを言いたそうにハルに対して視線を向けた。
「んっ? どうしたの、リーヴ?」
「……ハル。もうちょっと、だけ、このままで、いて……。お願い……」
リーヴはそう言うと、ハルの首に両腕を回し、彼に対してより強く身体を密着させる姿勢を取った。
巨獣を退けることができたとはいえ、もしかしたら、リーヴも怖かったのかも知れない。それを思うと、ハルにはその両腕を振りほどくことはできなかった。
「うん、いいよ。それじゃ、ゆっくり戻ろうか」
「……うん。ありがとう、ハル……」
ハルは、リーヴの思いを汲み取ろうとするかのように、ゆっくりとした歩調でコンピュータールームへと戻っていった。
リーヴが見せた正体不明の能力。謎は深まるばかりだったが、これをどうにかして自分たちの目的を果たすための手助けに使えないかと、ハルは考え始めていた。