「翡翠さん!」
シェリーは翡翠を迎えに行った。
青ざめた彼女の側に膝をついて、その手を取る。再度、呼びかけると、泣き腫らした目がシェリーを捉えた。
「あ……ぁ……」
怯えきった彼女をさする。それからシェリーは、彼女の顔、続いて首筋、震える脚を確かめていく。
「怪我はなさそうね」
「シェリーさん……」
「ロボットに囲まれた翡翠さんを見かけたの。移動基地に、武装機能を付けておいて良かった」
「そんなことが、出来たんです、ね……」
「ギリギリね。メンテナンスしてくれていたモモカには、頭が上がらないわ」
ずるる……。
腕をほどくと、翡翠がぐったりと脱力した。
「翡翠さん?!」
糸の切れた人形のように、彼女がシェリーにもたれかかった。
「安心したら、力、抜けちゃいましたぁ……」
「服、汚れるわよ」
聞き分けのない子供のように首を横に振って、シェリーにしがみつく彼女。
「何で、そんなに親切なんですか?私は、シェリーさんやモモカちゃんを、信用しきれていないのに。弱くてみじめで、大切にされる価値もなくて。何も返せるものがないのに」
「そう?翡翠さんの今の格好、私達を信用しきれていない人には見えないわ」
「…………」
翡翠くらいの年頃なら、まだまだ甘えたがって当然だ。彼女は、さっき両親を呼んでいた。こんな殺伐とした時代なら、尚更、守られたいとも望むだろう。シェリーでも、家族には未練がある。
「私なんか助けてくれて、シェリーさんに何の利益があるんですか?」
「…………」
それは、シェリーもさっき考えた。
何をしても、足掻いても無駄だと悟ったあとに、何故、移動基地の武装機能を起動したのか。
今から分かる。
「誰かを救うための科学。翡翠さんを守れて、私はその証明に近付けた。十分な利益だわ」
親孝行の機会をなくしたシェリーには、科学の力しか残っていない。
人々の暮らしを支える。明るい未来へ導く。
当初はともかく、シェリーが科学者を続けた根底には、そんな理想があった。家族を蔑ろにしてまで研究に没頭していた過去も、否定したくない。後悔しても、否定までしてしまえば、本当に何も残らなくなる。
「科学は人を傷つけるためのものじゃないと、抗いたいの。この移動基地だって、過去に力を合わせてきた仲間の案から生まれたもの。ここで生きるしかないなら、最悪、最後の一ヶ月になっても、モモカやあなたへの後悔まで、残したくない」
シェリーは、今度こそ翡翠から腕をほどいた。さっきより焦点の定まった彼女は、しゃんと背筋を伸ばしている。
この世に完璧な人間などいないのかも知れない、と翡翠は思った。いたとすれば、それはそうした役割を背負わされた人間に過ぎない。
家族を求め、人間同士の繋がりに、くるおしいほど縋ってきたようなシェリーと自分は、どこが違うのだろう。
翡翠がシェリー達を信じきれていなかったのは、事実だ。
生命維持装置を解除して、彼女の目覚めを待つ間、翡翠はモモカにシェリーの世話を依頼された。ここにいれば身の安全は保証出来る、そんな魅力的な条件付きで。
翡翠は、返事を躊躇った。家族を亡くしたシェリーと、家族に逢えない自分が重なったからだ。身内でなければ埋められない空虚もある。翡翠に代わりが務まらないのは目に見えていた。
だが、翡翠はモモカの労いに、涙腺をゆるめた。シェリーに怪我の手当てを受けて、久し振りに他人の温もりに触れた。
実家の財産が払底して、屋敷を取り上げられた時、親族達は翡翠ら一家を非難したのに、シェリーは危険を顧みないで、ロボット達から守ってくれた。彼女にとっては矜持の延長線上にある行為でも、翡翠は大切にされる安らぎを思い出せた。
「私、モモカちゃんに、シェリーさんのこと頼まれていました」
翡翠はシェリーに打ち明けた。そして、彼女の本心を知りたくて、突き放すような態度をとったことまで白状する。
「本物の家族でもないのに、親兄弟みたいに支えられるはずがないって、シェリーさんとの関わりに、むやみな期待は持ちませんでした。でも、人の温かさに飢えていた私にとって、シェリーさんの優しさは、夢みたいで……」
たまたま幸運や条件が重なったのもある。シェリーの生い立ち、境遇が、そもそも翡翠を襲っていたような村人達とは別次元だ。翡翠は、ともすれば相手が少し親切な人間なら、簡単にほだされていたかも知れない。彼女でなくても「夢みたい」と感じたかも知れない。
それでも、翡翠が出逢ったのはシェリー達だ。
一陣の風が吹き抜けていった。
翡翠が腕を抱いた時、シェリーが腰を上げて手を差し出してきた。
「立てる?」
「…………」
辺りには、人影ひとつ見当たらない。
絶望的な世界の中で、奇跡の確率をかいくぐってきたようにして、翡翠に優しい人間が現れた。
悲しげな諦念の覗く青い目に、翡翠が映り込んでいる。彼女を笑顔にする存在になりたいし、彼女と姉妹のように親しみたい、と空想せずにはいられなくなる。十数年ともにいた家族のように、翡翠は彼女の話を聞きたい。
翡翠は、シェリーの手を取る。そして腰を上げて砂を払った。
「お腹、空いてきました。少しですけど、干し肉持ってきていたんです。一緒にいかがですか?」
「そうね、有り難う。冷えてきたし、翡翠さん。おうちに帰ろう」
「……!!」
翡翠は、自分の耳を疑った。
「今の、って、……まるで、……」
まさか、そんなはずがないと思い直す。
シェリーにとって、家族は特別だ。その家族にかけるような言葉を、初対面にも等しい相手に向けるはずない。
きっと口癖だ。だが、悪い気はしなかった。
彼女が振り向いてきた。
「どうしたの?どこか痛い?」
「そうじゃなくて、……」
翡翠は、シェリーを追う。
彼女に肩を並べて、翡翠は、頬がゆるむのを自覚する。本当に彼女と姉妹だったら、と、空想するくらいは自由だ。誰も何も損はしない。
「シェリーさんの今の言葉、お姉ちゃんみたいだったなと思って」
おうちに帰ろう。
そんな言葉を、もう随分と長い間、翡翠は聞いてこなかった。最後に誰かと帰路を歩いたのは、いつだったか。
シェリーを救いたい。救われた分、彼女にもこんな温かな思いを返したい。
切実に願う──…。
「変な子」
思わずこぼれた笑みを連れた感じの声が、翡翠の胸をくすぐってきた。