第29話

 えりいがどれだけ残酷なものを見たのか、織葉としては想像する他ない。いかんせん、保健室の惨劇が起きた時、自分は彼女の傍にいなかったのだから。

 ただ、遺体の状況は聞き及んでいる。

 紺野彩音は腕がひきちぎられた状態で、腹を裂かれて内臓がいくつも欠損していた。そのどれもこれも生活反応があり、生きたまま腕をちぎられ腸を喰われたのが明白だったという。彼女は学校でも有名な“美少女”だった。織葉も同性の友達から彼女の話題を聞いたことくらいはある。可憐でお淑やか、大和撫子という言葉が相応しい女の子。いつかお近づきになりたい、なんて冗談交じりに話していた少年も少なくなかった。

 しかし、最終的に見つかった彼女の顔は苦痛に歪み、皆の憧れたお嬢様の面影はなくなってしまっていたという。

 えりいはその様子を間近で見ていたのだ。にも拘らず助けられなかったともなれば、繊細なえりいの心にどれだけ傷を残したかなど明らかだろう。

 本来なら、きちんとカウンセリングを受けさせて、そっとしておくべき事に違いない。

 それこそ犯人が熊のような猛獣やサイコパス殺人鬼ならば、警察などに保護を任せて然るべきところだ。一般の、自分達のようなただの高校生に出来ることなど何もない。犯人が捕まることを、自分の身を守りながら祈っていることしかできなかったはずだ。

 でもこれは、警察の手に負える案件でもないとわかってしまっている。

 怪異が相手である以上、いくら祈っていても願っていても事態は解決しない。自分達の手で、出来る限り足掻くしかないのだ。

 えりいだって、本当はそれがわかっているはず。生きるためには、俯いている暇さえないということくらいは。


――この半月の間に、俺もわかったことがある。少しは、えりいの役に立てるはずだ。


 できることはなんでもしたい。

 小さな頃には決意しているのだから。自分は――えりいを守るためならば、命さえ惜しまない、と。


「えりい。俺だ、織葉だ」


 ドアをノックする。返事はないが、中から小さく衣擦れの音が聞こえてきた。起きてはいるのだろう。むしろ、あのようなことになってからまともに眠れていないはずだ。

 眠ったらまた、扉鬼の世界にひきずりこまれる。そして、場合によっては自分も扉鬼の怪物に殺されるのかもしれない。そう思ったら、そうそう眠りに落ちることなどできまい。さすがにこの半月の間、一睡もしていないなんてことはないだろうが。


「入るぞ、いいな?着替え中とかだったらストップかけろ」

「……だいじょう、ぶ」

「よし」


 返事ができるなら、まだなんとかなるだろう。少しだけ安心して、織葉は中へと踏み込んだ。

 部屋の中に入ると少しだけ饐えた臭いがする。多分、ここ数日は掃除も怠っているからだろう。元々えりいはあまり整理整頓が上手な方ではないが、ここ最近は輪をかけて酷いのか、ベッドの周辺には紙ごみや衣類が散らばった状態になっている。適当に脱ぎ散らかしたと思しき下着が落ちているのに気づいてしまい、織葉は思わず視線を逸らした。

 そしてえりい本人は、パジャマ姿のままベッドに横たわっている状態。手元にはスマホ。――スマホの動画でも見ながら、どうにか起きているといった状況だったのだろう。


「とりあえず訊くが。……お前、最後に眠ったのは?」


 織葉が尋ねると、えりいは振り返ることなく“きのう”と答えた。


「寝たくなかったけど……徹夜、三日くらいが限界、みたいで。……昨日の夜は、寝ちゃった」

「それで、夢の中に怪物は出てきたか?」

「まだ、遭遇してない。けど、逃げてる人は、見た……。でも」


 えりいの声が、湿っている。


「でも、でも……ネットで、調べたの。扉鬼の世界に入って、怪物を見たって言ってる人、結構いるの。危機感持ってる人は本当に少ないんだけど……夢を見た初日に遭遇した人もいて。やっぱり、日数が経つほど遭遇率が上がるみたいで。だったら、もう、何日も夢に入ってる私は、そのうち……」


 それは、否定できなかった。

 恐らく扉鬼の世界に入って長くなればなるほど、危険な眼に遭う確率が上がるのだ。えりいの後ろに見えている扉は、最初に彼女がおまじないをやったと思しき日よりかなり近づいてきている。そして、扉も半分近くが開いているようだった。あれが完全に開け放たれるまで、あと何日あるかもわからない。――あれが完全に開いて、奥にいるものが出てきてしまった時、きっとえりいは最期を迎えることになってしまうのだろう。それも、とても残酷な形で。


「そんなことさせない」


 織葉はきっぱりと言い放った。


「でも、えりいの命を守るためには、えりいの協力が必要だ。塞ぎこんでただ眠らないようにしているだけでは解決しない、それはお前もよくわかっているはず」

「……わかって、る、だけど」


 えりいがごろん、と横になったまま振り返った。その目は充血し、目の下には濃いクマがある。


「だけど、私……紺野さんを助けられなかった。紺野さんは、私を助けようとしてくれたのに!」


 これが何よりの本音だ、とその目が語っていた。


「そりゃあ、紺野さんが誘ってきたせいで扉鬼の件に巻き込まれたのは事実だけど……でも、悩んでた時一番最初に声をかけて、助けてくれるって言ったのは紺野さんだったの!一番心配してくれたの、優しくしてくれたの!それが……私にとっては、本当に嬉しくて、だから……ううううっ」

「助けたかったのか」

「うん。……うん。そんなに付き合いあったわけじゃないし、一番の友達かって言われたら違うのかもしれない。でも、いい人だったんだよ。優しい人だったんだよ。自分のためじゃなくて、お兄さんを取り戻して家族を元通りにしようって、そのために扉鬼の力を使おうとしていただけ。そりゃ、死んだ人を蘇らせようとすることも私利私欲って言われたらそれまでかもしれないけど、でも、でもさあ……!あんな風に死ななくちゃいけない理由なんてどこにもないじゃん!」


 ひょっとしたら、ここ数日はまともに泣くこともできていなかったのかもしれない。

 本当にショックな出来事が起きた時、人はすぐに受け入れることができないものだと聞く。泣く、というのはそれを受け入れた証でもある。できないから、茫然とするしかない。ただぼんやりと、どこか脳を麻痺させて生きていくしかない。勿論それで解決になると思っているわけではないだろうが、そうするしかない時だって人にはあるのだ。

 人間の心は、あまりにも弱いから。

 脆いからこそ、誰かに寄り添えるものでもあるから。


「目の前で」


 掠れた声で、えりいは告げる。


「目の前で、紺野さん、腕をちぎられたの。お腹を食べられちゃったの。私と銀座さんで、止めようとしたんだよ。紺野さんを起こすことができれば、夢の世界から出られて、生き延びられるかもしれないと思って。でも、実際、そんなことなくて。どんなに声かけても起きないし、腕がひっぱられないように抵抗して抑えようとしてもできないし、私、私どこまでも、なんも……」

「うん」

「助けたいって思ってた。紺野さんがお兄さんを助けるために、出口まで出るまでお祓いは待ってって言った時も悩んだよ。それまでに紺野さんや銀座さんが死んじゃったら意味ないし、だから説得しなきゃって、でも、迷ってて」

「うん」

「もし、あの時すぐそれじゃ駄目だって言って、休み時間のうちにどこかの神社でも駆け込んでたら、何か変わったのかな。そうしたら、そうしたら助けられたのかな。だとしたら、私が、紺野さんを、殺し……」

「それは違う、えりい」


 何か酷いことが起きた時、みんな、何かが悪かったとか原因だったとか、そういう結論を出したくなるものなのだ。何かが違えば回避できた、誰かが悪いから事件が起きた。そう思うことで自分を守りたいと思ってしまうイキモノなのである。それが自責になる人と、他責になる人がいるというだけで。

 でも、残念ながら世の中には、人の力ではどうにもならないことがあるのだ。大規模な災害とか、自然のイキモノの力だとか。時に人は、そういう存在を認めて、己の無力さを受け止めて生きていくことも必要なのである。誰も恨めないし憎めない、次に起きても回避できないかもしれない――その事実がどれほど残酷で、恐ろしいものだとしてもだ。


「今回のことは、えりい一人の力で回避できるものじゃなかった。そもそも、話を聞く限り朝の段階で紺野彩音の様子はおかしかったんだろう?既に怪物に追いかけられていたとも聞く。もはや逃げられない状態で学校に来た可能性が高い。……えりいが知った時には、どうしようもなかったんだ」

「だけど、でも、でも……」

「受け止められないのはわかる。けれど、その死を変えることはもうできない。変えることができるとすればそれは……自分達の未来だけだ。未来はまだ、変えられるかのうせいがある。後悔しないために、俺たちは全力を尽くさないといけない、そうだろう?」

「無理だよ、そんなの……!」


 えりいは顔を覆って泣きだした。


「だって、紺野さんがあんな風に殺されるような化け物がいるんだよ?そんな相手にどうやって対抗するの?大体、ギリギリで助けようとして外部の人間が呼びかけても助けられないって、それじゃどうしようもないじゃない。怪物に抵抗できる武器を持ち込めるわけでもないし、紺野さんは実際逃げきれなかったし……!もう駄目だよ、私達みんな死んじゃうんだよ……!」


 彼女の絶望は、想像するには余りあるものだ。紺野彩音が死んだことはもちろん、自分も同じ未来が待っているかもしれないともなればどれほど恐ろしいことだろう。しかもそれを共有できるかもしれない銀座蓮子とは彩音よりずっと喋ったことはないし、苦手意識があるというのは聞いている。相談できる相手もなく、苦しかったに違いない。

 でも。

 だったら、黙って殺されるのを待ってやる理由があるのだろうか。答えは否、だ。


「諦めるな。諦めるのは、死んでからでも遅くない」


 ベッドの傍に跪き、織葉は訴えた。


「そして、まだ駄目と決まったわけでもない。俺も、ここ数日いろいろ調べてわかったことがある。少しは助けになるはずだ」

「わかった、こと?」

「ああ、それから、紺野彩音の状況からもいろいろ推察できる。……いいか、えりい。今だからこそ、一番武器になるのは情報なんだ。それを冷静に考察し、精査できる力なんだ。冷静さを失ってはいけない。苦しくても、絶望して、生きることさえ投げ出してはいけない。それは、死んでしまった紺野彩音への冒涜にもなる。彼女は、お前や銀座蓮子が同じように死ぬことなんてきっと望まない、そうだろう?そう言う人だから助けたかったんだろう?」

「うん……うん。わかってる。わかるよ、でも……」


 どうすればいいの、とその目が言っている。

 確かに、織葉だって確実に状況を打破できるほどの何かを持っているわけじゃない。でも、まだ足掻くことはできると知っている。

 ゆえに。


「扉鬼について、噂が急速に広まったのはここ半月程度のこと。でも、それよりも前から調べている人がいたんだ」


 えりいの手を握る織葉。

 そう、希望は潰えていない。――実はとっくに、専門家たちが扉鬼を認識して、動き始めていたのだから。