その日、小学校から帰って来た舞衣は、浮かない顔で母親の背中に飛びついた。
「ちょっと、危ないじゃない」
料理中だった母親は包丁を置いて、舞衣の小さな頭を撫でる。それから優しく身体を引きはがして、腰を屈めるようにして向き合った。
「どうしたの。今日は二分の一成人式だったでしょう?」
舞衣は険しい表情で首を縦に振った。渾身のふくれっ面だった。
舞衣の小学校では『二分の一成人式』というイベントがある。文字通り成人の二分の一――つまり十歳を祝うミニセレモニーだ。たいていは集会で偉い人の話を聞いて、それからクラスに戻って一人一人、本当の成人式に向けての抱負を発表したりする。
「ちゃんと未来への抱負を話せた?」
舞衣は再び頷く。
「クラスの子に笑われた」
「え?」
「笑われた」
舞衣はぶつぶつとつぶやくように訴える。母親はそんな我が子の頬を撫でて、優しく笑いかけた。
「舞衣は未来の自分に向けてなんて話したの?」
「女優」
ぶつんと単語だけを放り込む。母親にはそれだけで理解できたようで、うんうんと頷いてみせる。
「舞衣の夢だものね。でも、どうしてそれで笑われたの?」
「わかんない」
「考えても?」
「たぶん……みんなにはなれないから?」
ふむ――と母親は舞衣の言葉に、ちょっと考えこむように上を見た。
「舞衣は映画の女優さんになるのよね」
「うん」
もう一度目を見た母親に、舞衣はハッキリと頷く。迷いのない瞳には、もうスクリーンの中に立つ自分の姿が見えているのだろうか。小さな胸に入りきらないくらいの願いが満ち溢れていた。
「笑われたとき、舞衣はどう感じた?」
予想外の質問だったのか、舞衣は目を丸くして、天井を見上げる。それからぐっと口を堅く閉じて、口角を震わせた。
「悔しかった」
かすかな嗚咽と一緒に涙がこぼれる。母親は彼女の頭を撫でて、それからエプロンの裾で涙を拭ってあげた。
「舞衣が『えいがの中の人になりたい』って言った時、一緒に観に行ってた映画、覚えてる?」
母親の問いに、舞衣はハッキリと答える。
「ナルニア国」
正しくは 『ナルニア国物語』。誕生日にDVDも買ってもらい、何回も繰り返し観た作品だった。家の衣装ダンスが異世界に繋がっていて、迷い込んだ四兄弟がナルニア国の救世主となって悪と戦う、王道のファンタジー映画だ。母親に連れられて映画を見に行った舞衣は、見終わるなり「ずるい」と口にした。
自分も彼女たちみたいに大冒険をして、泣いて、笑って、きらきらしたい。えいがの中の人になる――舞衣の中に夢と呼べる想いが芽生えたのはその時だ。それを聞いた母親が、昔通っていたという劇団のジュニアコースに入団したのが翌週のこと。
幸いなことに、舞衣自身に演技という世界はそれなりに合っていた。ジュニアコースとはいえ、趣味やお遊びではない劇団の指導は厳しく、子供にとっては理不尽に思える叱責も時にはあった。しかし、そんなこと当たり前だというくらいの気持ちで打ち込むことができた彼女の姿勢を、才能と言わずに何と呼べばよいだろうか。
「ナルニア国のアスラン王は、エドマンドの命を助けるために自分の命を捧げたわね。悪い魔女のところへたった一人で出かけて、どれだけ心細くても、魔女のしもべたちに笑いものにされても、エドマンドのために最後まで誇りを捨てなかった。だからこそ処刑台となった石舞台は、彼の命を救ったの。覚えてるでしょう?」
母親が諭すように語ると、舞衣はちょっと溜めてから、一息にそのセリフを口にする。
「裏切り者に代わり善なる者が命を捧げた時、石舞台は砕け、死は振り出しに戻る」
「流石、よく覚えてる」
繰り返し観るうちに覚えたのだろう。作中の言葉を流ちょうに話す娘に、母親は誇らしそうに頭をなでてやる。舞衣はその手をやぼったそうに振り払って、真っ赤な眼で母親のを見つめた。
「わたしは誰かに裏切られて、犠牲になったの?」
「ええと、そこじゃなくてね? お母さん、笑われたって信念を曲げなかったアスラン王の姿を思い出して欲しくってね?」
娘の想定外のカウンターパンチに、母親は慌てて言葉を濁す。
「あと、お母さん」
「な、なに?」
「お母さんと観に行ったのは『2』で、石舞台の話はおうちで観た『1』だよ」
「あれぇ……そーだったっけ? そーだったかも?」
いい加減に立つ瀬がなく、母親は口笛交じりに視線を泳がせた。舞衣自身それで冷静になってくれたようだが、このままでは威厳が台無しなので、改めて娘の背中を優しく撫でた。
「とにかく! 泣くほど頑張ってる舞衣のことを、お母さんは知ってるわ。劇団のみんなも、先生も、お父さんだって知ってる」
「うん」
「そうやって悔しいって思えるうちは、まだまだ夢は叶うんだから。心配することないのよ」
「うん」
力強く頷いて、舞衣は調理途中のまな板を見上げる。
「今日のご飯は?」
「肉じゃが……にしようと思ったけど、舞衣の好きなカレーにしようかな?」
「じゃがいも、いっぱい」
「了解です、女王様」
母親はおどけたみたいに、にっかり歯を見せて笑ってくれた。