見渡せば見渡すだけ記憶が掘り起こされる。それだけ、陽奈と過ごした時間は、舞衣の人生の中でも広い部分を占めていたということだ。最も大きな部分が母親だったとすれば、その次くらいに。
「おまたせしました」
そうこうしている間に陽奈が部屋へ戻ってくる。毛布は脱いで来たのか、もこもこした厚手のパジャマ姿だった。
「脱いだの?」
「なんだか不評だったので」
ツンとした様子で陽奈はテーブルにお茶をセットする。いらないと言ったのに、シュークリームも二つ分皿に乗せてくれていた。
「ああいうのって似合うとか似合わないとかじゃないと思うけど」
「だったらノリで『似合う』って言って欲しいのが乙女心なんです」
「なんで敬語なの?」
「二人の距離感を表現しています」
「説明されなきゃ伝わらないならクソ演出だね」
「もう、何なの!」
陽奈がひとり爆発して、それからにへらと笑った。そう、いつもこうだ。口喧嘩をしても舞衣は負けたことがない。最後は陽奈が根負けして、二人して笑って終わり。彼女は舞衣を全面的に肯定する。まるで崇拝するかのように。
舞衣は淹れてくれた紅茶に口をつける。小ぶりのティーカップなので、ジャムはスプーン二杯。既製品の味がするが、それでも物が良いからか美味しかった。
「それじゃ、いただきます」
陽奈は紅茶を味わうのもそこそこに、目の前のクッキーシューにぱくつく。小顔の陽奈からすれば顔が隠れるんじゃないかってくらいの大きさで、一口かじるたびに幸せそうに細めた目が見え隠れする。
「陽奈の家に来ると、いつもおばさんがこれ用意してくれたね」
「舞衣ちゃんの好物ってママに聞いてたけど」
「え、そんなこと言ったっけ?」
心当たりがない。そもそもこのクッキーシューを知ったのは、初めて陽奈の家に来た時だ。いわゆるパイ生地のシュークリームしか知らなかった舞衣にとって、サクサクした食感のシューは未知との遭遇だった。たいそう驚いて、夢中で食べたのは覚えている。
「ママがそう覚えてて、舞衣ちゃんが来るたびに張り切って買いに行ってたのに」
あんまりがっついたものだから勘違いされてしまったのだろうか。単なる旺盛な食欲を好みと捉えられてしまったなら、過ぎたことだとしても恥ずかしい。
「美味しいし、好きではあるんだけど。おばさんに悪い事しちゃったかな」
「良いと思うよ。友達が遊びにくるなんて初めての経験だったろうし」
舞衣の記憶に残る陽奈の母親は、とにかく綺麗で優しい人だった。物腰柔らかで、笑顔が上品。認めたくないが、しぐさや表情だけならアマネそっくりだ。
知っている限りでは、彼女は陽奈を叱るということをしたことがない。代わりにどこか諭すような物言いが特徴的で、後々小学校の先生だと聞いてからは、なるほどなと納得した。
「おばさん、元気にしてる?」
「前も聞いたよねそれ。相変わらずで、今日舞衣ちゃんが来るって言ったら『会いたい』って駄々こねてたよ。職員会議さえなければ半休を申請するのにって」
彼女が駄々をこねる状況が全く想像できない。きっと家族だから分かる、微妙な感情の機微はあるんだろう。
今でもはっきりしているのは、あの人が舞衣の理想とする「大人の女性」だったこと。仕事も家庭も娘すらも真摯に向き合う姿に、人としての美しさすら感じていた。
思い出して、今の自分と見比べてみる。憧れは届かないから憧れなんだというのは世界の真理だった。
「あたしも会いたかったな」
「陽奈に会うのは渋ったのに?」
「渋ってないよ」
「ほんとかなぁ」
実際、渋ったつもりはない。ただ気が乗らなくって――それを世間は渋ったと言うのかもしれないが。
「あたしの分はおばさんにあげて。もともとそのつもりで買ってきたし」
「じゃあ、そうするね。ママも喜ぶと思う」
「そうだなぁ……『昔、恋愛相談に乗って貰ったお礼』って」
「何それ? いつの話? 陽奈、聞いてないんですけど?」
陽奈が姿勢を正し、真顔で舞衣に詰め寄る。なんだかめんどくさい香りがしたので、舞衣はいい加減に本題を突き付けることにした。
「それで、撮影延期ってどういうこと?」
すると陽奈は乗り出していた身を引いて、手繰り寄せたクッションをお腹に抱えた。
「あの監督がついに女性スタッフに手を出したとか?」
「あはは。ああ見えて、監督はそんな人じゃないよ」
否定する陽奈の表情には、わずかに引きつったものが見える。大事じゃないが、未遂か何かはあったのだろう。彼女はそのままゆっくりと話し始めた。
「その……事故があってさ」
陽奈の言葉は、語尾につれて次第に力がなくなっていく。
「事故って、誰か怪我でもした?」
「うん。その……仁島さんが」
たった一度の面識でも、誰もが知る女王の名前が出ればどきっとする。舞衣は気持ちを落ち着かせるため、紅茶に口をつける。ベリージャムの酸味が舌を引き締めた。
「足を強く打って、骨にヒビが入っちゃったみたいで」
「それで、治るまで延期ってことね」
「うん」
状況は飲み込めた。けど、舞衣はわざわざ貴重なオフを使って呼ばれた理由として、納得はしていない。
「仁科さん、すごいんだよ。残りのカットに動きがあるシーンはないから、そのまま撮影を続行してくれって。監督さんやカメラマンさんと一緒になって、怪我が目立たないアングルを考えて。それで、山でののロケは全部撮り終えたんだ」
「すご。女優魂ってやつだね」
「ほんと尊敬する。陽奈、ちょっと自分が恥ずかしくなった」
「現場に友達連れていくくらいだもんね」
「それは……でも、必要なことだと思ったから」
「エキストラのことなら、まあ、私も諦めたよ」
手の平にあの日の温もりと冷たさが蘇る。じんわりと汗が浮かんで、舞衣はジーンズで拭った。
「そもそも、なんで怪我なんか? そんな危ないシーンあったの?」
「それが……その、陽奈のせいなの」
陽奈はうつむいて、自分の唇をもごもごと甘噛みする。ここからが本題なんだと、舞衣は座りが悪かった姿勢を崩す。
「スキーのシーンだったんだけどね。陽奈が不注意で足を滑らせちゃったんだ。仁島さん、それを庇ってくれて。陽奈の代わりに変な転び方しちゃって」
「それで、足をやっちゃったと」
陽奈はぎこちなく頷いた。
「危ない場所じゃなかったの。スキーだって、どっちかと言えば得な方だし。でも陽奈、頭がくらっとしちゃって……それで」
「貧血?」
「ううん。そういう感じじゃなくって……」
状況を上手く説明しきれないのか、陽奈はクッションを抱えたまま無言でゆらゆらと身体を揺らす。
「とにかく。陽奈、仁島さんに謝りたいんだけど……どうしたらいいと思う?」
そう、クッションに顔をうずめて上目遣いに尋ねる。
舞衣はお茶を啜ってから、じっとりとした目で陽奈をみつめる。
「普通に、お菓子でも持っ行って謝りゃいいんじゃないの」
「それができないから相談してるのに」
「なんでよ。偶然の事故なんでしょ」
舞衣のその一言は、陽奈を元気づける――とまでは言わなくとも、気持ちを上向かせるつもりのものだった。しかし、陽奈は本心を突かれてしまったかのように押し黙ってしまう。
それを見て、舞衣はロケ中の陽奈の様子を思い返す。目に見えて、変なところはなかったと思うけれど。目に見えないところ――
「そう言えば陽奈、全然寝てなかったよね。確か、あたしが見学に行った日も」
陽奈は何も答えない。ただ身体がガチガチに固まって、クッションが折れ曲がるくらい強く抱きしめる。それが図星のポーズなのを舞衣は知っている。
「もしかして、事故の日も全然寝てなかったんじゃないの?」
陽奈は何も答えない。舞衣は少し乱暴に、カップをソーサーに置いた。
「馬鹿でしょ。ほんとに馬鹿。どんな仕事だろうと体調を整えるのは初歩の初歩でしょうよ。睡眠不足で望んだら、そりゃ空も地面も分からなくなるよ」
「違うよ」
突然、陽奈が口を開いた。これまでそんな事なかったので、今度は舞衣は固まってしまう。
「仕事だから、体調を整えないんだよ。それが役になるってことでしょ」
「ごめん、意味わかんない」
舞衣は首を横に振る。陽奈は顔をあげて、舞衣を正面から見つめた。いつの間にか目元が赤く染まっていた。
「だって今回の陽奈は、失恋で夜も眠れない女の子だから。ちゃんと寝ちゃったら、そういう女の子に観てもらえないから」
「なに。つまり、役に合わせるためにそうしてる……っての?」
陽奈はハッキリと頷く。何の迷いもなく力強く。絶対の自信を持って。
「それが先生と舞衣ちゃんが教えてくれた『演じる』ってことでしょう?」
あまりに真っすぐに言うものだから、舞衣の思考は数秒の間が必要だった。舞衣は震える唇で、たどたどしく絞り出す。
「いや……そりゃ、確かに役になりきるために身を削る役者はたくさんいるけど……それでも常識の範囲でしょう。自分以外、誰にも迷惑を掛けない中での。度を過ぎたら、それは違うでしょうが。当たり前に考えたらさ」
「当たり前じゃないよ」
陽奈が、強い口調で否定する。
「陽奈じゃなくって、小鳥にならなくっちゃ。陽奈を見せるのは恥ずかしいことだから、恥ずかしくない生き方をしてる誰かにならなきゃ。それでようやく、小鳥になれたんだもん」
澱みのない声で、映画のセリフみたいに一気に語る。舞衣には目の前の彼女が分からなかった。それが本当に自分の知っている籠目陽奈なのか、自信が持てなかった。
いや、そうじゃない。昔からそうだったと舞衣は思い出す。陽奈の演技は内側から別の誰かになってしまうこと。籠目陽奈という皮を被った別人。ターミネーター。ずっとそうだった。ずっとずっと。