水曜日。相変わらずの雪模様の中、舞衣は父親に頼まれた荷物を車に積んで、祖父母の家を訪れた。
「お婆ちゃん、いる?」
チャイムを鳴らしたうえで、鍵の掛かっていない玄関を開ける。声をかけてしばらく。廊下のの向こうから祖母がやってきた。
「舞衣ちゃん。あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
「あれでしょう。お荷物。今、お爺ちゃん呼んでくるから」
「うん。よろしく」
祖母は目元をくしゃっとして笑うと、家の奥へと戻っていった。しばらくして、祖父が汗を拭いながらやってくる。雪かきでもしていたのだろう。
それから二人で手分けをして、あっという間に荷下ろしは終了した。
「ありがとう。整理はこっちでやっておくから。コーヒーとお紅茶どっちがいい?」
「あー、じゃあ紅茶で。そうだ。シュークリーム買ってきてるよ」
「あら嬉しい。じゃあお爺ちゃんも呼んでお茶にしましょうか」
朗らかに笑う祖母を前にして、舞衣は運んだばかりの段ボールを見下ろす。
「これ、何が入ってるの?」
「お父さんに聞いていないの?」
「何にも」
「開けてもいいわよ。懐かしいものが出てくるかしら」
祖母が台所に消えていったので、舞衣は近くにあった箱を開けてみる。中は、一見ガラクタのように見える雑貨類だった。動物の置物や、どこかのお土産みたいな民芸品の人形。じゃらじゃらと何かが入ったポーチ。そのどれもが、舞衣にとって見覚えがあるものだった。
驚いて、他の箱も開けてみる。一番量を締めているのが服だった。他に化粧品やアクセサリ類。それから小さい箱たっぷりの絵ハガキ。
「舞衣ちゃん、お茶の用意ができたわよ。あら、懐かしいわね」
ちょうど開けていた絵葉書の箱を見て、祖母が目を細めた。
「あの子、ずっと集めてたのね。小さいときからね、旅行のたびになんでかお土産で買ってくるのよ。写真よりこっちの方がいいって」
祖母が舞衣の前で「あの子」呼びをする相手は一人しかいない。
舞衣が積んできたのはすべて母親の遺品だった。
買ってきたクッキーシューをお茶うけに、祖母が入れてくれたお茶が薫る。茶葉はその辺で売っているものだが、舞衣はそこに祖母お手製のジャムを入れて飲むのが大好きだった。たっぷりと葡萄ジャムを放り込む舞衣の姿を見て祖母が笑う。
「本当はジャムとお紅茶で別々にいただくのよ」
「そうなの? なんでだろ。ずっとこれだった」
「あの子がそればっかりだったから、真似っこをしたんじゃないかしら。はしたないからやめなさいって言っても、全く聞かない子だったから」
舞衣の記憶はおぼろげだが、なるほど、母親に教えられたのだろう。少なくとも彼女がこうやって飲んでいたのは覚えているし、幼い日の自分がそれを真似していたのも確かだ。
「ところでお婆ちゃん。あの荷物のことだけど」
「このシュークリーム美味しいわね。どこの?」
「むらやまって近所のお店」
「そうなの。今度、お爺ちゃんに連れて行ってもらおうかしら」
祖母の視線を受けて、祖父は黙々とシュークリームを頬張りながら頷く。夫が寡黙で、話の中心が妻になるところは藍田家によく似ていた。母親が祖母に似ているのか。それとも祖父に似た人を夫に選んだのか。どちらにしても、舞衣にとっては懐かしさすらある光景だ。
「ええと、それで荷物だったかしら。お正月にお父さんからお電話があったのよ。遅くなったけれど、あの子の荷物をお持ちしますって」
「あたし、それ一言も聞いてない」
と言いながらも、年末年始の間は忙しくてまともに父親と会話をしていないことを思い返す。毎日、自分でも分かるくらい死んだ顔を化粧で隠して出社していた。あの時だったらたとえゾンビの群れに放り込まれたって気づかれない自信がある。
朝食くらいは顔を合わせているけれど、舞衣がそんな様子だったから気を使っていたのかもしれない。父親が休暇を利用して部屋を片付けていたのは知っているが、まさか遺品整理だとは夢にも思わなかった。
「ほら、あの子、いきなりだったでしょう。だから手続きだ、お葬式の準備だで手一杯になっちゃって、ちゃんと荷物の整理をできていなかったのよ。お父さんは、それを気にしていたみたいでね。ようやくお返しできますって」
「そんなこと――」
わかる、が舞衣の気持ちは複雑だった。祖母は舞衣を元気づけるように笑った。
「あまりお父さんを責めないであげてね。よく考えて決めたことだと思うの」
「それはそうだけど」
引っかかるのは、やっぱりひと言くらい言って欲しかったからだ。父親は一体何を考えて母親の思い出を片付けたのだろう。何を考えて自分に運ばせたのだろう。いくら寡黙でも、言わなきゃいけないことはある。
収まらない舞衣の気持ちに、祖母は困ったように祖父を見た。紅茶もすっかり平らげた祖父は、自分の食器を片付けながら答えてくれた。
「男が身の回りを片付けるのは、出世した時と、旅に出る時だ」
出世した時と、旅に出る時。祖父の言葉を頭の中で繰り返す。
「ごめん、よくわかんなかった」
「ですって、お爺ちゃん。私も分からなかったわ」
女二人に責められて、祖父はバツが悪そうに身体をゆする。
「あいつが死んだその日に、彼は頭を下げに来た。申し訳ありませんでした。ただそれだけだった。十分に伝わった」
「それから、お父さんはここに来なくなったんだよね」
父親が頭を下げに来た、という話は、舞衣も後になって聞かされていた。それから彼は母親の実家に顔を出さなくなり、盆や正月に舞衣は一人で祖父母の家に遊びに行っていた。
「あの子をお嫁に出した時点で家族なんだから、遠慮はなしよって言ったのだけれど。お父さんはお父さんのケジメがあったのね」
父親はそういう人だ。舞衣は心の中で頷く。なあなあにすることをせず、ハッキリとした判断基準で動く。おそらくその血を色濃く継いだだろう舞衣には、父親の選択が痛いほどに理解できた。
「あの子もお父さんみたいな人と出会えて幸せだったはずよ。私たちが夢を諦めさせてしまったのに」
祖母の言葉に、舞衣はぴくりと反応する。
「お母さんの夢……?」
なんだか新鮮な話題だった。物心ついたころからずっと主婦だった母にも夢があったと言う話は、寝物語で聞いたことがある。でもそれが何なのか、彼女ははぐらかして教えなかった。祖母は少し意外そうな顔をしながら、紅茶のポットに新しいお湯を注いだ。
「同じ夢を追っていたのだから、てっきりあの子から聞かされてると思ったわ」
「同じって――お母さんも役者を?」
身を乗り出した舞衣に、祖父は気まずそうに腕を組む。祖母がカップにおかわりをついでくれた。
「そう。でも私もお爺ちゃんもほら、ずっと田舎育ちでしょう? 全然ピンとこなかったから、二人して反対だったのよ。それで一時期は家出までするんじゃないかってところまで行ったんだけれど、結局は地元の企業に就職したわ。そこでお父さんと出会ったのよ」
「そう、なんだ」
初めて聞かされた両親のなれそめは、それほどロマンチックではなかった。いや、これが映画なら、会社で二人が出会ってからが物語の始まりか。夢を諦めたお茶くみ
「お母さん、なんで役者を目指そうとしたんだろう」
「確か、小学校の文化祭で合唱劇をした後だったかしらね。確か写真があったわ」
部屋を出ていった祖母はどこかへ向かった後、すぐに戻って来た。その手には古いアルバムらしきものが抱えられていた。
「これだわ。どれがあの子かわかるかしら?」
開いてくれたページには、色あせた集合写真が載っていた。行事が終わって、劇の衣装のままステージで撮った記念写真。少し目を走らせて、一人の少女に目がとまる。
「この子……」
「確か演目は鶴の恩返しだったのよ」
先生を押しのけてど真ん中を占拠する彼女は、カメラに向かって満面の笑みでピースを突き出していた。それが母親だという自信はなかったが、歯を見せる悪気の無い笑みが、思い出の中の彼女とそっくりだった。
舞衣は写真の彼女を指でなぞってから、祖父母のもとへ向き直る。
「実は、今働いている会社から正社員にならないかって話があってさ」
話題を変えるような舞衣の報告に、祖母は下がっていた眉をみるみる上げた。
「あら、そうなの? 映画館よね。すごいじゃない」
高校に受かった時も、今の契約社員が決まった時も、二人はこうして喜んでくれた。もちろんオーディションに受かって、東京行きが決まった時も。いつだってそうだ。祖父母の喜びが、舞衣の正しさの証明だった。
「今のところ、受けようかなって思ってる」
お葬式の日、舞衣は初めて父親の涙を見た。それだけの時間を父と母は過ごして来たということだ。これまでの人生でたった一度、強烈に目に焼き付いたその姿は、きっとこれからも忘れることはない。それが今日までの舞衣の原動力で、同時に舞衣を縛り付けているもの。父親にとって母親がどれだけ大きな存在だったか、頬を流れた小さな雫にすべて詰まっていた。
あの瞬間、舞衣は自分のやらなければいけないことを理解した。自分は父親のそばにいなきゃいけない。母親の代わりになるつもりはなかったし、できるとは思わない。だけど娘として、家族として、舞衣はそばに居続けることを選ばなければならなかった。
ギリギリまで決断の邪魔をしたのは、夢という名のわがままと、陽奈との約束。けれど自分を応援してくれた母親の言葉が、意図せず舞衣の後押しをしてくれた。
――舞衣が成人するまで私が一緒に東京に住んであげる。それなら絶対に許してくれる。
舞衣の東京行きの夢は、母親が一緒という条件つきで叶えられるもの。家族で決めたルールが、舞衣の夢を正しく諦めさせてくれた。