第九十八話 静寂の剣戟

 激化する決勝戦。熱気が籠る県大会の会場。


 その会場にいる大半の者達の注目は、大将戦や副将戦へと向けられている。


 残った者達も三将戦や中堅戦に注目しており、後ろに行くほど人数が減っていた。


 ──先鋒戦。審判すら目を向けていない会場の端の方で、武林勉と三枝さえぐさ天外てんがいは将棋盤を見下ろしていた。


「……」

「……」


 両者ともほとんど相手の顔を見ず、ただ目の前の盤面だけに集中して思考を研ぎ澄ませている。


 勉は序盤から勢いのある早指しで天外を急かすように小技を放つが、天外はしっかりと時間を使って冷静に対処していた。


 何かを狙うような罠も、死角から放たれる複雑な妙手も、天外は全ていなして堅実に指していく。


 そんな天外もただで黙っているわけではなく、あまり知られていない定跡への誘導を試みたり、あえて相手の研究を外す難解な手順を選択して勉を追い込んだりしていた。


 勉はそんな天外の意図を把握していながら、自身の堅実な将棋を押し付けるように局面の構想を操る。


「……」

「……」


 あい居飛車いびしゃによるあい雁木がんぎ戦。硬派な将棋の代表例のような二人の指し回しに、見ている方もあくびが出るほどの退屈さを感じる。


 最初こそある程度の観戦者が見物していた先鋒戦だったが、ジリジリとした変化のない戦いが続いていたためか、時間が経つにつれて見る者が減っていき、終盤戦に入るころには誰も注目を向けない対局となっていた。


 誰も注目しない先鋒戦。誰の目にも止まらない平凡な戦い。


 ──そんな中で、は、無風の熱気に自然と溶け込む。


「……なぜ、何も言わない」


 自らと面と向かって対峙し、それでも無言を貫く勉に、天外は我慢ならずにそんな言葉を漏らした。


 局面は既に終盤戦。互いに詰むか詰まないかの激戦を繰り広げているにもかかわらず、勉も天外もほとんど表情が変わっていない。


 天外の一言に勉の指が一瞬だけ止まる。しかし、視線は天外を向かない。


 このまま終局まで無言を貫こうとした勉に対し、天外は逃がさないといわんばかりにその言葉を投げかけた。


「……質問を変える。──どうして凱旋道場を辞めた? 勉さん」


 すると、勉の視線が一瞬だけ天外を向いた。


「……」


 僅かな沈黙。何らかの意図を含むため息。交わる視線を乱すかのように対局時計の音が鳴る。


 勉は、しばしの長考の後にその口を開いた。


「……こうして君と戦うのはいつ振りかな、三枝君」

「さぁな、忘れた。……だが、最後にアンタに負けたまま終わったことだけは覚えている」


 そう言って天外は勉の角を取って対局時計を叩いた。


「……もう一度聞く、どうして凱旋を去った? 何か目的があったのか?」

「……ふぅ、そんなところだな」


 勉も天外の角を取って対局時計を叩く。


「俺はてっきり、アンタが将棋をやめたのかと思ったが」

「はははっ。そういう君こそ、未だに凱旋道場にいるのか。しかも先鋒とは……」

「俺はただ待っているだけだ」

「……」


 天外の思わぬ言葉に、勉はバツが悪そうな顔をして黙った。


「アンタと、愛染あいぜんと、瑞樹みずきと、香坂こうさか。……俺はあの頃の凱旋が世界で一番強かったと自負している。凱旋道場の名を全国に轟かせたのは、まごうことなきアンタたちの手腕だったからな」


 天外は決して指す手を止めることなく語る。


「でも、みんないなくなった。俺だけを残して、みんなどこかへ消えてしまった」


 それはどこか憂いた声色を感じさせて、どこか寂し気な表情が見て取れる。


 鳥籠の中にとらわれてしまった想いを吐き出すように、天外は告げた。


「今の凱旋を見てみろよ。自分を過剰評価する井の中の蛙、過去の勝利に酔いしれてる救いようのない連中ばかりだ。──もうボロボロなんだよ。この道場の看板は」

「……」


 天外は知っている。数年前の進撃を、時代を切り開いた英雄がいたことを。


 凱旋道場は最強だった。嘘でも偽りでもなく、正真正銘の最強。天才の名を掲げる完全無欠の道場だった。


 そんな凱旋道場が絶対的な勝利を掲げるようになったのは、当時の者達がたった一度も敗北することが無かった栄光に縋るため。


 凱旋道場のエースたちは絶対に負けない。絶対に敗北を晒さない。やがて勝てる者がいなくなり、彼らはプロの世界へと旅立つだろう──。


 そんな声に呼応するように、凱旋のエースを冠した者達は次々と凱旋道場の元を離れて行った。


 武林勉もその中の一人である。


 勉は、その輝かしいメンバーの中でも影の薄い存在として認知されていた。


 なにせ奇抜な指し方をせず、平凡で凡庸な堅実的な将棋を好む。AIのような最善手を追い求めた指し方をするわけでもなく、時代にとらわれない自分だけの指し方を身につけているわけでもない。


 ただ真っ当に、普遍的な指し方で勝利を掴んできた。


 だからいつも脚光を浴びるのは他の3人で、勉は特に注目されていなかった。縁の下の力持ちのように、ひっそりとその強さをみせていた。


 しかし、勉の実力を知る天外にとっては、彼もまた同じ凱旋道場のエースである。


 それはいつまでも変わらない。いつまでも、ずっと変わることのない事実で、今でも天外の記憶に残り続ける憧憬だった。


「……なぁ、勉さん。凱旋に戻ってくる気はないか? アンタがいてくれたら、凱旋は昔のように栄誉を取り戻すはずだ」

「……なるほど、対戦前に渡辺君を勧誘していたのはそういう理由だったか」

「ああ、そうだ。アイツは強い。対峙しただけで分かる強さだ。しかも聡明で物事をよく見極めている。……凱旋に来れば、きっと良いリーダーになるだろう」


 天外は僅かな希望へと縋るようにそう話す。


 かつての栄光を取り戻すため、かつて輝いていた凱旋の旗印を掲げるため、天外はいつか夢見た理想郷に思いを馳せる。


 しかし、勉は首を横に振った。


「オレたちは西ヶ崎高校将棋部だ。せっかくのお誘いだが、もうその場所に戻る気はない。……それと、渡辺君も差し出せないな」

「……やっぱりそうか。……残念だ」


 天外はそう返されることを初めから分かっていたかのような顔を浮かべると、駒台に乗せてあった持ち駒を中央に放る。


「もう投了するのか? 結構追い詰められている気がするが」

「白々しい。もう読み切ってるだろうが。それに、時間を忘れるのはアンタの悪い癖だ」


 そう言って天外は対局時計のボタンを押すと、対局時計にそれまでの二人の指した手数が表示される。


 早指ししていた勉は気づかなかったが、二人の対局は既に150手にも及ぶ大熱戦となっていた。


「俺はアンタを目指してこの世界に入ったんだ。……150手も粘れたなら悪くない結果と言える」

「本気を出していたようには見えなかったがな」

「人のこと言えるのかよ。それに買い被りすぎだ。俺は初めから全力だった。アンタが強すぎるだけだ」

「……そうか」


 勉は駒台に残っていた持ち駒を天外と同じく盤面に放り、そのまま天外に手を差し出した。


「三枝君、君は謙遜しているようだが、オレはかなり苦戦していたぞ? 特に中盤戦の新手は研究の範囲外だった。あそこから上手く指せていたら、オレが負けていた可能性も十分にあっただろう」

「そりゃあいい。これで手応えが無かったなんて言われたらどうしようかと思っていたところだからな」


 そう言って天外は差し出された勉の手を握る。


「……それで結局、凱旋を辞めた理由は語ってくれないのか」

「……」

「まぁ、アンタのことだ。どうせ何か企んでるんだろう?」

「……オレはただの高校生だ。思春期の男の詮索なんてするもんじゃないぞ?」

「バカ言え、アンタみたいな高校生いてたまるかよ。図体もデカいしな」

「はっはっはっ! ──では!」


 いつものテンションに戻った勉は、疲れ切った首を鳴らしながら休憩所へと去っていく。


 そんな勉の背を見て、天外は誰かに話しかけるように呟いた。


「戻ってくる気はないそうだ」

「そう」


 そう言って天外の隣に立ったのは、凱旋道場の師範である沢谷さわや由香里ゆかりだった。


「いい駒が手に入ると思ったのに、残念ね」

「思ってもないことを」

「……」


 沢谷はポケットに手を入れて、大将戦に目を向けながら天外に尋ねた。


「戦ってみてどうだった? 彼は強かったでしょう?」

「……正直、心折れかけた」


 天外は正直にそう言い放つ。


 そして、その目は沢谷と同じく大将戦へと向けられる。


 ──激化する二人の戦いは、決着へと向けて刻々とその時を刻んでいた。