第九十七話 情報という名の暴力・後編

 人を見た目で判断するな、なんて眉唾ものだと思っていた。


 陰キャで、平凡で、頼りなさそうな雰囲気を醸し出している1つ上の先輩。将棋だけは異様に強くて、むしろ将棋以外には何も興味が無さそうな男。


 そんな人が、私を救ってくれた誰よりも優しい恩人だった。


「おまたせっすー!」


 私は道場の入口となる扉を開ける。


「アオイおねーちゃんだ!」

「アオイおねーちゃん!」

「ねーねー! アオイおねーちゃん! このまえ教えてくれた戦法おぼえてきたからやろー!」


 道場に入ると、先に来て待っていた子供たちが寄ってたかって私を取り囲む。


 ここは鈴木哲郎の運営する西地区にある小さな道場。生徒となる子供たちは合わせて十数人。まだ大会にも出られない級位者がほとんどだ。


「アオイおねーちゃん! やろー!」

「やろー!」

「はいはい……って、こら! 今スカート捲り上げたの誰っすか!」

「あー! アオイおねーちゃん今日はピンクだー!」

「ピンクー!」

「こんのエロガキ! ろくな大人にならねーっすよ!」

「わー! アオイおねーちゃんの頭のうえに飛車がのったー!」

「駒で遊ばない! 無くしちゃうから! あと頭の上に乗せるな!」


 そう言ってる合間にも、膝の上に乗った女の子がペタッと私の胸に両手を押し付ける。


「むふー」

「はぁ、ここは幼稚園か……」


 自由奔放な賑やかすぎる子供たちを前に、私は思わずため息を零す。


 仮にも鈴木会長の息がかかった将棋教室なのに、子供たちは誰一人として大人しくできていない。


 ふと上を見上げれば風船が天井にくっついており、横を見ればおもちゃのボールが転がっている。端に将棋盤が出されているかと思えば、駒がドミノ倒しのように並べられていて誰も将棋をやっていないことが分かる。


 これが西地区の未来を繋ぐ子供たちだと思うと、先が心配だ……。


「ほらガキども! 全員集まれ!」


 私は声を荒げながら手をこまねいて、散らばっている子供たちを将棋盤の前に並べさせる。


「今日は特別な勝負をするっすよ!」

「なにー?」

「とくべつー?」

「とくべつってなにー?」

「アオイおねーちゃんの好きなひとー?」

「アオイおねーちゃんはみかどって人がすきなんだってー」

「ぶっ!? ちょ、どこで聞いたんすかそれ! ……じゃなくて! 今日はみんなとアオイで実際に対局をしてみるっすよ! それでもし勝てたら、今日もみんなにご飯を作ってあげるっす!」


 私が"ご飯"という単語を出すと、子供たちはやる気に満ちた顔で喜んだ。


「やったー!」

「アオイおねーちゃんのご飯すきー!」

「アオイおねーちゃんもすきー!」


 本当はご飯を作るのは鈴木会長の仕事。でも、たまたま私が作った日のご飯が子供たちに絶賛されて、気づけば私が作ることになっていた。


「今日のご飯はなににするのー?」

「今日のご飯はアオイ特製、デミグラスソースを使ったふわふわオムライスっすよ……!」


 それを聞いた子供たちはゴクリと喉を鳴らす。


「でもなー? アオイも作るの大変だからなー? アオイに1回でも勝てたら作ってあげてもいいかもなー」


 私は煽るように体を揺らしてそう告げると、子供たちは難しい顔をし始めた。


 私にはそう簡単には勝てないと思っているのだろう。当然勝てるわけはないのだが、私はある程度力を抜いていい具合に負けてあげるつもりだ。


「おまえたち! だんごーするぞ!」


 年長組の子供が腕を組んでそう言った。


「おいまて、そんな言葉をどこで覚えてきた。ズルはダメっすよ、ちゃんと自分の力で勝つように!」

「「「はーい」」」


 こうして、私は今日も道場の子供たちに将棋を教えるのだった。


 ※


 それから県大会を1ヶ月後に控えたある日、道場にミカドっちがやってきた。


 どうやら私に用事があるわけではなく、鈴木会長に用事があるようだ。


「──それで、できる限りでいいので教えてくれませんか?」

「ふむ……別に教えるのは構わないが、本番でも同様の戦法を使って来るとは限らないよ? 過去のデータは所詮過去のものだ」

「分かっています。俺が知りたいのはあくまでも情報ですから。対策はこちらで練りますので」


 二人は何やら県大会へ向けた小難しい話をしている。私は子供たちに将棋を教えながらなんとか聞き耳を立てていたが、内容の全ては理解できなかった。


 今のミカドっちは周りから不正者扱いされている。最初はその件に関して鈴木会長に訴えに来たのかとも思ったが、ミカドっちはそんなつまらない足枷あしかせを見向きもしなかった。


「……君は、本当に優勝を目指しているのだね」

「当然です。目の前の敵より、最後の敵ですから」


 そう告げるミカドっちに、鈴木会長は大量の資料を渡す。


「凱旋道場のエース、赤利君以外は概ね自分の得意な戦術を持っている。1ヵ月もあればある程度の対策は取れるだろう」

「……井出秀治はオールラウンダーですか」

「いや、彼の戦い方は厳密には相手の棋譜を参考にして弱点を突くタイプだ」

「棋譜を参考に……? その場の戦いを参考にするわけではないんですね?」

「当然だ。それが出来たら本物のオールラウンダーだからね。どんなに才能のある人間であっても、相手の戦い方を対策するには必ず膨大な時間を要する」

「なら対策はできそうです。……ところで、凱旋道場は本当にこの順番でいいんですね?」


 順番……? 何の話だろうか。


「ああ、間違いない。凱旋道場は道場内で明確な順位付けがある。だから団体戦に出る時のメンバーは必ず強い順に上から振り分けられていくようだよ」

「……強い戦い方ですね」

「それが凱旋の指針であり、プライドだからね」


 どうやらその内容は、メンバーの編成についてのものだった。


「だから戦術的に勝ちに行くのであれば、青薔薇赤利に弱者をぶつけて他のところで勝利数を稼ぐのが定石だね。……そうするのかい?」

「さぁ、どうでしょう」


 ミカドっちは最後にそう言い放って、道場を後にした。


 そして後日、ミカドっちはこの時に受け取った情報を活用して私達に多くの対策を施した。


 ──そう、今回の県大会のメンバー編成。私達は対中央地区を相手に組んでいる。


 凱旋道場ナンバー2の怪物であるメアリーシャロンと対するのは、彼女の最も因縁のある来崎夏。


 同じく凱旋道場ナンバー3と名高い浅沼隆明と対するのは、彼に一度も勝利したことのない東城美香。


 各々何らかの因縁のある相手、もしくは相性の良い相手をミカドっちが事前に選出して、今回の順番を決めていた。


 他の地区は眼中にいない。ただ最後の相手である中央地区だけを目標に全力で突き進む。それがミカドっちの最たる考え方だった。


「部長がいない今、俺達だけでメンバーを決めるしかない。……だから、俺はこの順番がいいと思う」


 そうして選ばれた私の相手は、井出秀治という男。彼と私は互いに弱点を突ける存在らしく、より先に情報戦を制した者が勝利するとミカドっちは読んでいた。


「この順番にすれば全員に勝機があるし、全員負ける可能性もある」

「真才くんの案に反対するわけじゃないけど、どうしてこんなリスクの高い順番にしたの? アタシは別に、浅沼隆明と戦わなくてもいいんだけど……」

「これは勝手な願望だけど、俺は俺も含めて全員に成長してもらいたい。だってこの大会に勝っても次には全国大会が待ってるわけだからね。……ただ目の前の勝負に勝つだけじゃなくて、成長しながら勝つことの方が良いと思ったんだ」

「……そっか。ならアタシから言うことは何もないわね」


 ミカドっちは、あらゆる物事を全て先回りして考えていた。


 何も考えて無さそうな平凡な男に見えるのに、全てが終わった後に何もかもが手のひらの上だったと気づかされる。


 そんな彼の思考は間近で見ていても理解ができない。どうしてその発想が思い浮かぶのか、どうしてその答えにたどり着けるのか。彼の行動に驚かされるたびに、その一言一句に意味があるのではないかと疑ってしまう。


 ミカドっちは、私に"勝ち方"を教えてくれた。


 でもそれは、意識して勝てる将棋を指すという意味ではない。


 勝敗をあまり意識せず、ただ純粋に将棋を楽しむことがその"勝ち方"に結び付くのだとミカドっちは言った。


「将棋を楽しめ。今の葵になら、それができる」

「……できるっすかね」

「できるさ。──それを体現している子たちを、葵は見てきたはずだからね」

「……!」


 そこで初めて、私はその言葉の真意を理解した。


 そうだ。自分が教えていた道場の子供たちは、誰よりも楽しそうに将棋を指していた。


 それは私がかつて通っていた天王寺道場の子供たちとは違う。彼らは真剣に将棋を指してはいたが、楽しんで指しているわけではなかった。


 対する鈴木会長の道場の子供たちは、いつも楽しそうに将棋を指している。


 私が来るまでいつも遊んでいて、全然真剣に向き合わなくて、将棋に関心があるのかすら分からない。そんなやんちゃな子供たち。


 ──でも、将棋を誰よりも楽しんで指していた。


「み、ミカドっち……もしかしてアオイをあの道場に入れたのって……」

「俺は何もしていないよ。葵には罰を与えただけだ」


 一体この人はどこまで考えて──。


「さ、練習に戻ろう。県大会は近いんだ。休んでる時間はないぞ?」

「……了解っす!」


 こうして私は、1ヵ月にも及ぶ短いようで長い特訓を将棋部の仲間たちと続けるのだった。


 ※


 ──そして迎えた県大会当日。


 私は鈴木会長に送迎してもらうために道場に向かうと、道場の前で子供たちが手を振っていたのが見えた。


「アオイおねーちゃーん!」

「あれ? なんでみんな集まってるんすか? 今日は道場休みなんじゃ……」


 そう疑問に思ったのも束の間、子供たちは私の前へと集まってくると、まるでプレゼントを渡すかのように後ろに手を隠しながら私を見上げる。


「はい、これ! アオイおねーちゃんにあげる!」

「これは……」


 そう言って渡されたのは、色とりどりの刺繍糸ししゅういとでできた青色のミサンガだった。


「アオイおねーちゃんが大会でゆうしょーできるように、ぼくたちで作ったの!」

「アオイおねーちゃんすっごくつよいから、きっとかてるよ!」

「でもこれつけたらもっとつよくなる! さいきょーになる!」

「アンタたち……」


 思いがけないサプライズに、私は涙腺が緩みそうになった。


「だからアオイおねーちゃん、大会がんばってきてね!」

「ゆうしょうだよ! ゆうしょう!」

「……うん、うん! アオイ頑張るっす! 絶対優勝して帰ってくるっすからね!」


 純粋な言葉ほど胸に響くものはない。ただその透き通った気持ちだけで、何倍も頑張れる気がした。


 子供たちから貰ったミサンガを右腕に付けた私は、それまで緊張で言うことをきかなかった手の震えが自然と止まった。


 きっと、温もりに包まれたからなのだろう。


 私なんかが、誰かの温もりに包まれる権利なんて無いのに。私なんかが、誰かに応援される権利なんて無いのに。


 それでも、心の奥底からあふれ出した笑みを──私はちゃんとあの子たちに見せられていただろうか。


 ※


「──られねぇんすよ」

「何……?」


 対局開始から始まった超急戦からの終盤戦。苦戦しながらもなんとかギリギリを保ち続ける秀治に、私は小さく呟いた。


「私もあのまま道を外れていたら、きっとアンタたちのように勝利を絶対とした考え方になっていた。……皮肉なものっすね。欲が破れてから夢が叶うなんて」


 一切の迷いなく指し続ける私に、秀治は眼鏡を直しながら眉間にしわを寄せる。


「さっきから何をごちゃごちゃと……ッ」


 反撃の糸口を見つけたのか、さきほどまで絶望的な表情を見せていた秀治の目に光が戻る。


 しかし、その手は一手隙いってすきだ。最終的に1手の差でこちらが勝つようにできている。


 私はその局面を何度も見てきた。あの人と、ミカドっちと対局してきた時に嫌というほど見てきた。


 ──"勝ち方"は、覚えている。


「──かわいいガキどもの前で、みっともない姿は見せられねぇつったんすよ」


 腕に付けたミサンガが揺れる。


 挟撃をしない、一方からの光速の寄せ。


 あれだけの攻防がありながら、私は未だに王様を囲っていない。守るための金銀を何も動かしていない状態でひたすらに攻めている。


 囲う手間すら省いた最速の攻めは、守る暇すら与えずに問答無用で秀治の陣形を崩壊させていく。


「馬鹿な……ッ!」


 東城先輩相手にも通った切れない攻め方、細い糸を手繰り寄せるような技巧の積み重ね。


 私の攻めは、どれだけの駒を犠牲にしても途切れることは無い。


「こんなの、青薔薇でもないやつにできるわけ──ッ!」

「"終盤は駒の損得より速度"っすよ」

「っ……!」


 反撃の間は与えない。与えたとしても、その一歩を届かせない。


 絶対に詰まない形。通称Zゼットと呼ばれる終盤の必勝形は、何も囲わない居玉の状態で発生するケースがある。


 ──最弱の守りが、最強の守りになる瞬間だ。


「そんな……こんな、ことが……っ」


 現代将棋は無駄のない攻め。防御を無視した最速の攻めだ。それを誰よりも極めた者が相手の喉元を食いちぎる。


 東城先輩でもない相手に、私の攻めを食い止められない。


 ──かくして到達した終点は、秀治の眼鏡が地面に落ちた音と共に正式な終わりを告げた。


「……負け、ました……」


 その言葉が耳に入ったとき、私は込めていた全身の力を抜くようにして──。


「ありがとうございましたっす~!」


 ……と、いつものテンションでそう返したのだった。