勉強はそれほど得意ではない。スポーツも苦手な方だ。人付き合いも上手くいかないし、友達もほとんどいない。このまま社会に出てもやっていけるのかすら分からないだろう。
そんな俺でも、将棋という分野では秀でた才能を持っていたらしい。
幼い頃から父と指していた影響だろう。その実力は周りの子供たちを追い抜かして、学校でも無類の強さを発揮していた。
幼馴染の明日香という女流棋士を目指している少女にも、初めての対局で勝勢を築けたことがあった。
だから、思わず言ってしまったんだろう。
いいや、最悪の偶然が重なって、その啖呵を切るしかなくなったのかもしれない。
──父が急病で倒れた。
手術は成功し、一命は取り留めたらしいが、余命を告げられるほどの短い命が時を刻んだ。
いつも活発に接してくれる父がベッドで静かに横になっているのを見たとき、俺は自分の無力さに憎しみを覚えた。
握られた拳は向ける場所を見失い、渦巻く後悔は無価値な涙に変わるだけ。
父は将棋が好きだった。昔はプロ棋士を目指していた頃があったらしい。
いつも将棋番組で棋士たちが戦っている姿を羨ましそうに見ていたのを知っていた。きっとあの場に自分が座っていたら、なんて考えていたのかもしれない。
だけど、父の将棋は楽しむ将棋だった。勝ち負けより、楽しく指せるか。それに全てを費やしていた。
だから大して強くなかったし、子供の俺から見てもそこまで差があるとは思えないほどの棋力だった。
そんな父を見て、俺は思わず口にしてしまった。
「プロ棋士なって、テレビに出る」
「……」
父の叶えられなかった願いを受け継ぐかのように、俺は即決でそう口にした。
父の歩んできた将棋が正しかったと、父から受け継いだ将棋が正しかったと証明するために、俺はプロ棋士を目指したのだ。
父が死んでしまう前にテレビに出て、俺が父の前で誰よりも強くあることで、父が教えてくれた将棋を証明したかった。
──それがいけなかった。
周りにいるのは明らかに度を超えた天才達。何十手もかかる詰将棋を秒で解いていくようなバケモノばかり。楽しんでいる人間なんて誰もいない。
それでもなんとかついていこうと必死になって頑張っていた俺は、最後の希望を託した奨励会の試験で見事に落選した。
──ポキッと、そんな風に心が折れる音が耳に響いた。
何故なら、もう父には時間が無いことを悟っていたから。
プロ棋士になると約束したのに、なれなかった。なれなかったのだ。
「……泣くな、真才。また次があるじゃないか」
俺はその言葉に頷くことができなかった。
次なんてない。あったとしても、その時にはもう──。
そう考えだしたら何事にも集中できなくなっていく。父のために指していた将棋だったのに、叶うことなく終わってしまった事実に悔しさが溢れ出す。
不安になって、激情に駆られて、どうしようもなく惨めな自分に嫌気がさしてくる。
だからもし、この状態のまま時を経てしまっていたら、きっと今の俺は無かっただろう。
「──なぁ、真才。今のお前は何のために将棋を指しているんだ?」
※
相手を舐めていたのは俺の方だった。
「じゃあ、指すのだー」
「……っ!」
千日手という指し直しを経て、早々に二局目が始まった決勝戦。
青薔薇赤利はさきほどと全く同じようにノータイムの高速指しを多用し、限界まで時間の消費を抑えた指し回しを行ってくる。
その手に対応して俺も同じように高速で指すが、思考勝負という面では大敗の状態だった。
──俺と青薔薇赤利の間で一体何が起きているのか。紐解けば単純な理由だ。
そもそもとして、俺の指す自滅流と言うのは莫大な思考力を必要とする。
当然だ、これはいわばオリジナル戦法。オリジナルが定跡に敵うなど普通ではありえない。
だからこそ、その普通を覆すために膨大な思考力を費やして、なんとか手を現実のものとして顕現させている。それが自滅流の正体だ。
俺だって人間だ。1日10局以上将棋を指せることはあっても、その全てを延々と集中させることはできない。自滅流を使うのであればなおさらだ。
自滅流には隙が無い。どんな戦法が相手であろうと対応できる柔軟性を持っている。
そして、短時間で膨大な情報量を瞬時に判断できる自滅帝としての思考が、この作戦の本質に当たっているのだろう。
──赤利はそこを突いている。
確かに、自滅流がどんな戦法にも対応できる柔軟性の高い戦術であることに間違いはない。だがそれは、全ての局面に対応できる無敵の戦法ではない。そもそもそんな夢のような戦法はこの世に存在していないのだから。
──自滅流の弱点は、相手から仕掛けてもらう必要があるということだ。
相手の攻撃を利用して王様を進軍させる。相手の駒得とこちらの入玉を等価交換で行い、圧倒的な戦いやすさというアドバンテージのもと戦いを繰り広げられる。それが自滅流の最たる構想だ。
だが、赤利はあえて攻めないことでそんな自滅流を崩壊に導いた。
ただ攻めないだけでは意味がない。こちらに攻めるチャンスがあればいつでも攻めれられる。自滅流は崩れても、攻めることで優勢を築ければ勝ちなのだから。
だが、赤利は常にカウンターを放てる手順しか指してこない。こちらが強引に攻めようとすると、全て赤利の方に形勢が傾いてしまう形を整えている。
しかも赤利は知っている。自滅流が単なる構想で作り上げられる戦術ではないことを。膨大な思考量を投じることで生まれる戦術であることを。
千日手になれば将棋は振り出しからやり直しになる。やり直しになって再び戦いだそうとすると、赤利は同じ戦術をとって再び攻めない将棋を目指すだろう。
すると俺は再び千日手を目指してより大きな思考力を費やす必要がある。
千日手自体はいつでも歓迎だ。何度も引き分けを繰り返し、互いに時間が無くなって早指しの勝負になれば、いつも将棋戦争で指している俺の舞台になるのだから。
だが、俺と赤利には明確な時間差が既についてしまっている。
せめてあと3分ほど時間差が縮まっていればまだ互角に戦えていたものを、俺が彼女の真意に気づけなかったばっかりに策に落ちてしまった。
赤利の主な作戦は、こちらが秒読みになった段階で戦い始めることだ。秒読みになれば多少なりとも悪手が生まれる。いくら将棋戦争で十段を取ったとはいえ、100%完璧な最善手を指し続けられているかと言われれば、当然無理な話だ。
秒読みで俺が間違えるその瞬間、赤利はその僅かに生まれる形勢の差を繋いで勝ちに行く。ある程度拮抗した棋力を悟っているからこそ、その手は大いに意味がある。
これこそが赤利の狙いだった。
まさに天才だからこそ許された所業だろう。自分の棋力にも相当な自信がなければその発想にすら至れない。
互いにノータイムで指し合う地獄の局面。序盤ということもあってそう簡単に悪手が生まれるはずもなく、むしろ俺の方が自滅帝というオリジナルの形をとっているためマイナス値になっているはずだ。
なのに、赤利は一向に攻めてこない。絶好の瞬間を常に待っているから。
「あー、赤利も段々頭が疲れてきたかもー」
「くっ……!」
その言葉は嘘ではないのだろう。実際、赤利の額からは既に汗が滲み出ている。
爆速で脳を回転させて最善手を導き出すことは容易にできる行為ではない。
だが──赤利はまだマシな方だった。
「はぁ……はぁ……」
俺は疲れを表情に見せないように取り繕うも、呼吸が荒くなるのを誤魔化すことはできない。
「そ、そこまで! ストップ!」
その対局を見ていた審判が再び制止を呼びかけ、俺達の局面はまたもや千日手を迎えることとなる。
「せ、千日手となりましたので指し直しとなります」
その言葉に会場が再び騒然とする。
「い、一体何が起こってるんだよ?」
「分からない……」
「二度も千日手になるなんて異常だろ……」
これで3局目だ。いよいよ疲労がピークに達する。
しかも、赤利はただ自滅流を封じているわけではない。
俺が攻めれば、赤利は恐らく俺を
今回の黄龍戦では、相入玉になった際は『27点法』が採用される。これは互いの駒を点数として数え、どちらかが過半数となる27点を超えれば勝ちというルールだ。
俺の繰り出す自滅流は、相手に駒を取らせている間に入玉するというもの。つまり、実質的な駒の損得は常に不利な状態なのだ。
相入玉戦になれば俺の負けは必然。だからと言って相入玉戦を避けるためには、こちらから無駄に攻めるわけにはいかない。しかしこのまま互いに攻めずに千日手を繰り返せば、俺だけ先に秒読みの世界に突入してしまい、一方的に不利な将棋を押し付けられる。
まさに完璧な策だった。自滅流の弱点を突いた完璧な作戦。そして仮に思いついたとしても、常人には実行できない。
この策は、青薔薇赤利だからこそできるものだ。
「そろそろ普通に戦ったらどうなのだー?
赤利は駒を並べながら俺にそう語りかけてくる。
「なー、オマエからは将棋を指す信念というヤツを感じないんだが、どうしてそこまで必死になって勝利にこだわるんだー?」
「……勝利にこだわってるのはそっちだろ」
「回答になってないぞー」
赤利は笑いながら楽しげに足をジタバタさせる。
「まぁ、オマエみたいなヤツは珍しくないのだ。その眼はよく見る修羅紛いの
赤利にそう告げられ、俺は静かに王様を手に取った。
磨かれた駒の裏側が鏡面となって自分の瞳が映る。
いつまで経っても変わらない色だ。あの日から、何も変わらない色をしている。
「……俺の何が分かる?」
「じゃあ答えてみるのだ。オマエはなぜ将棋を指すのだー?」
赤利の問いにふと昔のことを思い出した俺は、静かに顔を俯かせた。
『──なぁ、真才。今のお前は何のために将棋を指しているんだ?』
『それは……』
『父ちゃんのためか?』
『……』
『そんな誰かに課せられた義務のような答えじゃなく、真才の本心が表に出なきゃダメだ。そんなんじゃ父ちゃん、死んでも死にきれないぞ』
父から下される言葉はいつだって正しく、いつだって俺の心を揺さぶってきた。
『……分からない。……でも、将棋は指したい。奨励会に落ちても、プロになれなくても、将棋はずっと指していたい』
何のために将棋を指すのか。なぜ将棋を指すのか。そんな疑問を問いかけられても、その時の俺は上手く答えられなかった。
理由なんて、ないのだろうか。
『そうか。なら、きっとそれが正しい答えだ』
『え……?』
『本当に好きなものってのは、何のためにやっているかなんて聞かれても答えづらいものだ。──だって好きだから、好きだから指してる。そこになんでって聞かれても説明できるわけがない。 何せそれが最大の答えだからな。それは理屈や感情じゃない。衝動だ』
父はそう言うと、俺の頬に流れる涙をそっと拭き取って笑顔を向けた。
『だからな真才。もしお前が次に同じようなことを聞かれたら、こう言ってやれ』
──何を怖がっていたのだろう。
赤利の策に対応できない? 完璧な作戦? 自滅流の弱点?
あぁ、なんて浅ましい思考で物事を考えていたんだ。
自滅帝に染められて、絶対的な勝ち方に重きを置いて、勝敗の行く末に想いを馳せて。
馬鹿みたいだ。
「──なぜ、将棋を指すのか?」
思わず笑ってしまう問いかけに、俺は指先を駒の上に乗せて小さく呟く。
単純な答えだ。今までもそうしてきたし、いつだってしてきた。
ほら、今もしている──。
「──『将棋を指したいから』だ」
俺は自滅帝の思考を解いて、子供のように無邪気に微笑んだ。
千日手? 秒読み? あぁ、それも一興だろう。将棋は互いの全力がぶつかることで作り上げられるひとつの作品だ。
──だから、いい勝負をしよう。青薔薇赤利。
「……訂正する。やはりオマエはここで潰しておくべき存在だ」
その時初めて、赤利は戦慄の表情を浮かべながら本気となった視線をこちらに向けた。