第百四十話 誰よりも強い一歩を・前編

 びしょ濡れになった服のまま、俺は着替えもせずに自分の部屋へと入る。


 落雷以外で光を灯さない暗闇の部屋でパソコンを付けると、そのまま香坂賢人の過去について調べた。


「……」


 出てくるのは優勝した経歴と記事。プロと握手をしている写真。盾を持ってにこやかに笑っている賢人の姿。


 スクロールすると、下の方には様々な記事が並べられていた。


『至上最年少プロ棋士への期待! 師匠玖水棋士八段を超える逸材の少年棋士』


『天才少年、全国五冠達成も奨励会試験見送り』


『香坂賢人初失冠、対策された"香坂流こうさかりゅう"に懸念の声』


 時系列順に並べられた記事には、賢人の華々しい結果に少しずつ霧が立ち込めるようなタイトルが散見される。


 それでも最後まで勝ち続けたのだろう。最新の記事から1つ前の記事にはしっかりと『連覇防衛』の文字が書かれていた。


 そして、目立つところに投稿されてある最新の記事には、賢人の不在に追及する考察がなされていた。


『引退? 至上最強のアマチュアと呼ばれた男、香坂賢人がアマ棋戦に参戦しなくなったワケ』


 ページを開けば、我流の戦法が通用しなくなったからやめたとか、将棋に飽きたとか、単純に弱くなったから出なくなったとか書かれていた。


 だが、俺の主観で言えばどれも違う。


 賢人はああ見えて常に向上心の塊のような男だった。プロに負けず劣らずの棋力を持ち合わせながら、自身で独自の戦術を創り上げるような才覚者側の資質も持っている。


 それはかの英雄、玖水棋士竜人の影響もあるのだろう。


 だから賢人が弱くなるなんてことはありえない。ましてや将棋をやめるような人間でもない。仮にやめたとしても、必ずどこかで功績を立てる男だ。


 そんな男が音沙汰を無くして界隈に沈黙を残している。


 唯一交換していた賢人の連絡先に返信は未だ返ってこず、電話も応答しない。


「……俺より先に死んでんじゃねぇよ……」


 ──もう、確信するしかなかった。


 どこまで調べても2年前より後の消息がない。


 あの少女、香坂賢乃の言った通りである。


 賢人はもうこの世にいない。俺を置いて、置き去りにして逝ってしまった。


 信じたくはなかった。知りたくもなかった。


 でも、その真実は容赦なく俺の心に突き刺さる。


「ッ……」


 ……込み上げる嗚咽に拳を握る力が強くなる。


「なんでなんだよ……なんで……俺を救ってくれた人はみんな──……」


 まるで意志を託すかのように消えていく恩人達。


 俺はそんなことを望んだ覚えはない。父も、賢人も、俺の生きがいとして存在していた人たちだ。


「なんで……こんな……クソ……クソッ……!」


 重たくなる瞼を潰すように抑えて蹲り、濡れた髪をぐしゃりと握りしめてかきむしり、水滴とも涙とも分からない雫が頬を伝って流れ落ちる。


 色々な考えが頭を巡る。巡り過ぎて、もう何も考えたくないと閉じこもってしまうほどにだ。


 魂を抜かれた人間のように、泳ぎ方を忘れた魚のように、足を失って歩けなくなった虫のように、すべての生物は完璧が標準だ。完璧以外では何も為せない。


 つらいとか、苦しいとか、そんなものは数えきれないくらいに経験した。でも、これはその類のものじゃない。


 それが全てだった。それが全ての行動原理だった。


 父を失って絶望していた俺に、何も言わず将棋盤を取り出して対局を挑んできた彼の行為を今でも覚えている。


 あの時は、ふざけるなと、どこの馬の骨とも知らない奴に負けるわけ無いだろと。そうやって心底見下した態度で返り討ちにしてやろうと思っていた。


 だが、賢人はそんな俺を真っ向から叩き潰してくれた。


 先人たちの戦法を全く使わない、我流で、独自で、オリジナルで、誰も真似できないような戦法を──"戦術"を使っていた。


 そう、俺が今使っている自滅流は、賢人の将棋に影響されて出来上がったものだった。決して俺が自分の発想力で創り上げたものじゃない。


 賢人は『自分で考えて指す』ことの本質を教えてくれた。


 定跡にとらわれない新しい力、新しい戦法、新しい駒組。そうして出来上がる唯一無二の指し手こそ、棋士の定跡であると。


 ──師匠の教えらしい。


 俺はそんな賢人をならって、将棋このの世界に再び挑んだ。


 決して自分を過信せず、慢心もせず、自分の意志をしっかりと持つ。夢は強く、目標に向かって、ただ真っすぐに、脇目もふらず、突き通す。


 そうして賢人と"約束"を果たした時、俺は生きる意味を確立できる気がしたから。


「────」


 でも、生きる意味を失ってしまった今の俺には、もう……。











『なぁ、真才。たまには振り返れ。ずっと進み続けていたら、歩くことに慣れてしまったら、その一歩を踏みしめる力まで忘れてしまうぞ』









「────くん」


 くぐもった声が耳に入る。


 それは聞き覚えるのある声、何度も聞いた声だ。


 普段はもっと威圧的で、少し高飛車な声色だったはずだが、今俺の耳に届いている声は今にも掠れてしまいそうなほど弱々しいものだった。


 俺は頭を抱えていた腕を解き、鉛が詰まったように重い瞼を上げる。


 そこには人影があった。


 しかも一人じゃない。──何人もいる。


「真才くん……大丈夫……?」


 真っ暗な部屋に木霊する東城の声。


 その後ろでは、俺のことを心配そうに見つめる将棋部のみんなが立っていた。