第百三十九話 退部

 西ヶ崎将棋部の廃部が決まってから各々の部活が滞る中、その瞬間は唐突にやってきた。


「……なに、これ……」


 部室の最奥、武林勉の座る机に置かれた一枚の紙を手に取った東城は、その手を震わせながらそう呟く。


 手に入る力は普段より強く、指先は震え、視線は左右に動いて止まらなない。


 同時に後ろの方でカバンが地面に落ちた。


「えっ……?」


 東城が振り返ると、そこには葵をはじめとした将棋部の面々が真っ青な表情をしていた。


「東城先輩、なんすか、それ……?」

「おいおい、冗談だろ……?」


 東城の手に持つ紙に、全員が目線を送る。


 東城が手に持っていたのは、誰かの"退部届"だった。


 いったい誰の? そう皆が目を凝らして覗く先に勝てある名前は──渡辺真才。


 将棋部の"退部"の部分を丸で囲ってあり、担当顧問である宗像の判子が押された状態だった。


 誰かのいたずらなんじゃないか? 一瞬だけそんな考えも出てくるが、そこに書かれてある名前の筆圧も書き方も、普段の真才の書く文字と似ている気がした。


 いや、人の書く文字の癖など普段から見ていなければ分かりようがない。


 ただそこには『退部届』という事実だけが残されていた。


「真才先輩……」


 全員が驚く中、来崎だけは憂いていた事態が起きてしまったと悲しい表情を浮かべる。


「退部届……」

「どういうことっすか……なんなんすかそれ……?」


 葵は相当なショックを浮かべた表情でゆらゆらと東城に近づき、その手に持っている退部届を瞬きせずに見つめる。


 そして、湧き上がる激情と共に葵は東城を睨みつけた。


「と、東城先輩、まさか廃部の件を真才先輩に言ったんですか!?」

「言ってないわ。……来崎」

「私が先輩とデートしていた時は普通でした。その後は連絡を取っていません」


 真才との交流が一番最後にあった来崎ですら、首を振ってそう答える。


「ぶ、部長はなにか知ってるんじゃないっすか!?」

「……オレの方にも特に連絡は来ていない」

「そんな……!」


 慌てふためく葵、泣きそうになる東城。そんな不義理に辞めていくような奴だとは思わなかった佐久間兄弟は怪訝な表情を浮かべ、勉は冷や汗を浮かべながら考え込むように押し黙ってしまう。


「なんで急に……? なんで、なんでアオイたちに何も言わずに……? や、やめる理由なんてあったんすか、なかったっすよね!?」


 あまりにも突然の出来事に全員が沈黙する中、気が動転した葵は喚くように叫び散らす。


「理由も何も、俺達は大会が終わってからアイツと一度も顔を合わせていない」

「ならきっと何かの間違いっすよ……!」

「でも退部届は事実としてここにある」

「それは……! ミカドっちに直接聞きに行けば分かることっす!」

「……真才くんは、まだ学校を休んでいるわ」

「は……?」


 魁人の発言に、その場の皆が固まる。


「なんで、よりによってこのタイミングで……! い、意味分かんないっすよ! アオイ意味分かんないっすよ!! 誰か説明してっ!!」

「落ち着け」

「うぅっ……!」


 感情の高ぶりを抑えられずにその場に蹲る葵。


 彼女の錯乱は最もであり、納得できない理由もよく分かる。しかし、だからこそ、点と点が結びつかない現状に全員が目をそらしていた。


「……いや、違うわ」


 そんな中、東城が口を開く。


「きっと……そう、きっとこれは真才くんの"策"よ。彼は廃部のことも全部知っていて、何か動こうとして手を打った。そのための布石がこの退部届を出すことだったのかもしれないわ」


 東城の一言に葵はハッとして顔を上げる。


 その可能性があった。そう言わんばかりに希望を抱く葵と、それを満足そうに告げる東城。


 しかし、そんな東城に失望の目を向ける者がいた。


 ──来崎だった。


「凄い信頼ですね。バカみたいです」

「……なんですって?」


 唐突に敵意を向けてきた来崎に睨みを返す東城だが、来崎はそれに臆することなく淡々と答える。


「真才先輩とて人間です。私達の意を汲んで動けるほど完璧な超人ではありません」

「そ、そんなことは分かってるわ……! でも真才くんならありえるかもしれないじゃない!」

「じゃあ廃部の事はどうやって知ったんですか? 誰に聞いたんですか? この部の誰も伝えていないなら、昨日今日といった短い時間で知る由はありません」


 来崎はあくまでも正論で東城に噛みつく。


「それは……外部からのつてとか……!」

「そ、そうっすよ!」

「……盲目が過ぎます」

「でもっ! ミカドっちはアオイの件に関しても全部見通して動いてくれたんすよ! だからきっと今回も──」


 葵のその言葉が引き金となった──。


「そうやって! 真才先輩に全部押し付けて! 信頼と責任を勝手に背負わせて! 本人がどんな気持ちでいるか察したことはないんですか!?」

「……っ!?」

「ら、ライカっち……?」


 叫ぶような来崎の言葉が部室に響いた。


 今までにない怒声を正面からぶつけられた東城と葵は思わず息を吞む。


「私だって真才先輩のことをなんでも知っているわけじゃない……! むしろ何も知らない、知らない事の方が多すぎるくらい。……だから、この退部届には東城先輩が言うように本当は何か理由があって出したのかもしれませんし、それ以外の目的があったのかもしれない。でもそれは、あくまで私達が勝手に抱く理想論です、決して現実的な考え方じゃない……! もし、真才先輩が本当に辛くて、何かに苦しんでいて、そうして辞めていったとしたら、貴女達は自分の発言をかえりみることができるんですか!?」


 普段あまり口多くを喋らない来崎から溢れんばかりに出た感情的な発言に、全員が気圧される。


 そして、来崎はその言葉を、自分に向けても放っていた。


『俺は、君が思っているような出来た人間じゃない』


 先日、真才が零したその一言が脳裏にとどまり続けている。


「……来崎の言う通りだな。信頼と期待は似て非なるものだ」


 勉が沈黙を破ってそう告げる。


 東城や葵の真才に対する言動は、悪く言えばただの願望である。それを押し付けることは、真才の持つ実績に対する信頼であっても、真才自身に対する信用ではない。


 事の本質は常に心の中にしかなく、真才の心情など誰も知らない。


 なぜなら、この場にいる"三人"は彼に救われているだけで。


 ──誰も、真才を救ってはいないのだから。


「アオイは……そんなつもりじゃ……」

「……ごめんなさい、来崎」


 悲痛な面持ちでそう呟く東城。


「いえ……私も、人のことは言えないですから」


 来崎は目を伏せると、静かにそう返した。


 明らかに重い空気が漂う中、隼人はため息をつきながら頭を掻く。


「はぁ……お前らほんと周り見えてねぇな」

「え?」

「……どういうことっすか?」


 その問いに隼人は何かを応えようとしたが、魁人に背中の服を引っ張られて制止させられる。


「隼人」

「あー? あー……いや、なんでもねぇわ。取り敢えずさ、ここで言い合いするより真才に会うのが手っ取り早いだろ? 学校にいないなら直接会いに行けばいいだけのことだ」

「直接って……アンタ真才くんの家を知っているの?」

「俺は知らねぇ……が、部長なら知ってるはずだ。そうですよね?」

「ああ、渡辺君の自宅なら一応知ってはいるが……」


 しかし、勝手に行っていいものなのか。同じ部活の部員とはいえ、退部を決意した者の家に直接出向くなんて、本人からしたら嫌なことではないのだろうか。


 一同はそう思うも、今はそれを跳ねのけるだけの理由がある。


 先陣を切ったのは東城だった。


「そう、なら今すぐ向かいましょう……!」

「待て、外は大雨に強風だぞ?」

「そんなことは関係ないわ。みんな行かないならアタシひとりでもいく……!」

「あ、アオイも行くっす!」

「はぁ、びしょ濡れ確定だなこれ」


 勢いよく部室を飛び出した東城を追いかけるように、他の面々も続いて走り出す。


 そして一人取り残された勉は、部室の鍵を閉めると同時にすぐ近くの階段を下っていく男子生徒を見つける。


 ──すると、その男子生徒はいきなり振り返り、勉と目が合った。


「……雨は何色に見える?」


 唐突にそう問いかけてきた男子生徒に対し、勉は驚く様子もなく淡々と答える。


「……銀だな」

「そっか」


 そう呟くと、男子生徒は興味無さそうにそのまま階段を下って行った。


(あれは確か『上北《かみきた》道場』の……三原良治、だったか? 大会で見ないと思ったら、西ヶ崎高校ここに転校していたのか……?)


 勉は、以前のうっすらとした記憶から何とかその名を引っ張り出す。


 しかし、今はそんな場合ではない。


 勉はすぐに視線を戻すと、東城たちを追って校門の方へと走っていった。


 ※


 雨上がりの晴れやかな天気。子供の代わりに鳥の鳴き声が木霊する早朝。


 誰もいない朝だからこそ、静寂の楽しみを味わえる。


「やれやれ、またこんなに散らかして……」


 鈴木哲郎は、普段子供達が将棋をしている空間に足を踏み入れてそう呟く。


 葵玲奈の世話があってもこの酷さ。まだまだ子供達に将棋の才覚が宿るのは先になるだろう。


 ピンポーン。


 そんなことを思っていると、道場のインターホンが鳴った。


 こんな早朝に道場を尋ねるなんて、一体誰だろうか?


 玄関を開けると、そこには自身の半分もないかと思うほどの小さな褐色の子が立っていた。


「久しぶりだなー? 鈴木のおっちゃん!」

「……赤利君」


 そこにいたのは、青薔薇赤利だった。


「凱旋道場のエースがこんな朝早くに……いったい何の用かね?」

「うーんとなー。赤利からの頼みってわけじゃないんだが、知り合いからお願いされててなー? いやー、ホントは由香里ゆかりが出向くべきだったんだがなー。 なんか忙しくなっちゃってなー」


 いまいち何のことかは分からないものの、何か重大なことを隠している気配を感じ取る哲郎。


 そもそもとして、普段多忙を極めている赤利が単独で動くほど珍しいことはない。


 何かがある。そう感じた哲郎の予感は当たっていたようで、赤利は後ろに持っていた紙を哲郎に見せると、雰囲気を変えて真剣に尋ねた。


「鈴木哲郎。──"学校"って興味あるか?」