第百十四話 鬼畜兄弟の掃討戦

 県大会優勝──。


 気が付けばそんな目的のために戦っていたような気がする。


 広大な思考の海に潜り続けて、相手の手の先の先まで読み続けて、そうして目の前の一局に全身全霊を注いでいたからか、どこか夢を見ている気分だ。


「……はぁ……」


 泡沫にも思える熱気の中、俺は疲弊しながらも席を立った。


「あ……」


 すると、隣で同時に席を立った来崎と目が合う。


 どうやら副将戦も終わったらしい。


「終わったみたいだね」

「真才先輩……その、私……」


 何かを言いかける来崎に対し、俺はそれを待たずに微笑んだ。


「お疲れさま、来崎」

「……お疲れさまです、真才先輩」


 来崎もニコッと微笑みを返す。その屈託のない笑顔はどこかやり切ったような表情だ。


 うん、やっぱり俺はこの全力を出し切った来崎が好きだな。手を抜いているのはどうも彼女の性に合わない。


「先に休んでていいよ。俺は結果を見てくる」

「……分かりました。待ってます」


 俺と来崎は互いに首肯しゅこうし、それぞれ背を向けあって歩き出す。


 来崎は武林先輩のいる休憩室へ、そして俺は未だ勝負を続けている佐久間兄弟の元へと向かった。


 近場の観戦席では東城と葵が見守っている。


 俺はそんな東城たちに一瞥を送ると、二人とも声を出さずにサイレント拍手で可愛らしく喜ぶ。


 そんな二人に軽く頷いて、俺は佐久間兄弟の対局状態を覗き見た。


 ……さて、試合の内容はどうなっているか。


「……っ……」

「……くぅ……ぅ……」


 二人とも頭を抱えながら苦悩の表情を浮かべていた。


 しかし、その二人というのは佐久間兄弟じゃない、その相手だ。


 隼人の相手は少年、魁人の相手は少女。どちらも青薔薇赤利と同じくらいの背格好をしている。


 そんな二人のちびっ子を前に、佐久間兄弟は表情一つ変えずに盤面に向かい合っている。辛いとか苦しいとか、そんな様子は微塵も感じさせない。まさに余裕綽々といった様子だ。


 というか、二人ともやけに姿勢がいい。以前からこんな感じだったか……?


「くそ……おまえなんかに……っ!」


 すまし顔をする隼人の態度が気に入らなかったのか、相手選手の少年は青筋を立てながら気合の入った勝負手を放つ。


 少年が時計を押したと同時に、隼人の手が駒台に触れた。


 どうやら少年の手は読み筋だったらしい。


 しかし、そこで瞬時にノータイム指しをするのではなく、あえて秒読みの40秒をギリギリまで使って考え、さらに読みの入った勝負手で切り返した。


「……ッ!?」


 切れ味の鋭い鬼のような反撃。そこに読み抜けは一切無い。


 互いに秒読みに入り、団体戦の中で最後まで残るほど終盤戦がもつれこんでいるのに、その形勢は大差だ。


 しかも、隼人の指し回しは受け切りの姿勢。焦って勢いよく指してくる相手の足元をすくって転ばせる芸当。


 そんな隼人の指し回しに、俺は少しだけ気勢きせいが移る。


 ふと隣を見れば、魁人の方でも同じようなことが巻き起こっていた。


「うっ、うぅ……っ」


 極限まで追い詰められ、むせび泣いている少女を前に、魁人は一切動じることなくその棋風を維持する。


 見れば魁人はさきほどから最善手をほとんど指していない。しかし、悪手も全く指していないし、指す気配もない。つまりは次善手を中心に指すような立ち回りを見せている。


 最初の頃はあれだけ好戦的な指し回しをしていたというのに、まるで別人のような忍耐力のある指し回しだ。


「なあ、あれ止めた方がいいじゃねぇか?」

「対局者に話しかけるのはアウトだぞ、やめとけって」

「いやでもさ、いくらなんでもあれはやりすぎだろ……」


 他の戦いが終局したせいか、残った観戦者はこぞって佐久間兄弟の戦いの観戦に入る。


 一瞥すると、その者達は決勝戦だけ見に来た新規の観戦者達だった。


 そして、そのあまりに無慈悲な二人の戦い方に騒然としていた。


「あの西地区の子、まさか本当に『全駒ぜんごま』する気なのか……」

「マナー的にどうなんだ……?」

「凱旋道場ってかなりの有名どころだよな? あんなに痛めつけて大丈夫なのか……?」

「おい、あまり声上げるな、聞こえるぞ……!」


 これまでと違って、悪い意味でざわめきが走っている会場。


 全駒とは、その名の通り盤上にあるすべての駒を取る行為だ。


 本来であれば、ある程度勝機が見えた時点で果敢かかんに攻めて王様を詰ますのが普通だ。そうしなければ自分の王様が詰まされる危険性がある。


 将棋の終盤は速度勝負、いかに早く相手の王様を詰ますかがカギになる。他の駒に見惚みとれている暇など無い。


 だが、佐久間兄弟は相手の首元を見ていなかった。


 王様には目もくれず、その周りにある駒をぶんどっていき、相手の攻めを真っ向から潰しにかかっている。


 ──少年のまぶたに雫が籠る。


 ──少女が俯きながら鼻をすする。


 しかし、佐久間兄弟はそんな子供相手に一切の容赦を見せない。相手の攻め手を完全に失わせてからじっくりと追い詰め、ひとつずつはらわたに釘を刺していって、確実に仕留める。


 この指し方は良くも悪くも課題が見えるやり方だが、少なくともこの場においては"正解"だ。


「なんか可哀想に見えてきた……」

「だよな……」

「子供相手に容赦ないって言うか……」


 何を言っているのか。


 相手は凱旋道場のトップメンバーだ。しかもここは県大会の決勝戦、既に全国レベルに片足を突っ込んでいる状態の戦いだ。


 そんなところにいる相手に可哀想?


 それはあまりにも戦いというものを知らなすぎる。


 それに二人とも、まだ目は死んでいない──。


 子供ながらに感情のまま泣いているように見えて、その実反撃の機会をずっと窺っている。


 それは、二人の時間差を見れば一目瞭然だ。


 隼人の相手である少年の持ち時間は12分。魁人の相手である少女の持ち時間は9分。


 対する佐久間兄弟はどちらも持ち時間を失ってずっと秒読み状態だ。


 俺達が終わってからもこの持ち時間を維持していること考えると、佐久間兄弟は数十分もの間ずっと秒読みに追いやられていたことになる。


 そう、追い詰められているのはどちらかというと佐久間兄弟の方だ。


 だが、佐久間兄弟はそれを理解しているからこそ、一切の容赦を見せていない。


 確実に勝つために、一寸の狂いも許さないために、全駒を狙う棋風で確実な勝利を捥ぎ取ろうとしている。


「ぐすっ……えぐっ……」

「うっ、うぅっ……」

「おいおい……」

「見てられないな……まだ子供だろうに……」


 観戦者達のその言葉は本人達には届かないが、少し後ろで見ている俺の耳には届く。


 ──まだ子供、か。


 そう言えば、凱旋道場は勝利を絶対として掲げている道場だが、その勝利とはチームではなく個人を指すらしい。


 つまり、団体戦で誰が負けようと、自分さえ勝っていれば勝利という条件自体は満たされる。


 青薔薇赤利を含む凱旋道場のトップメンバーが全員敗北し、降段や退会が決まった今、ここで自分が勝利すれば他を出し抜いて一気に頂点の座へと駆け上がれる。


 この子供二人にとってはまさに寝耳に水だろう。


 勝っても何も得られなかった戦いは、昇段をかけた戦いへと変わった。


 ──ならば、どんな手を使ってでも勝ちに行くのが道理だ。


「……フッ」


 一瞬。そう、ほんの一瞬だけ少年の口元がニヤついたのを俺は捉える。


 それは、隼人がぬるい手──緩手かんしゅを指してしまった瞬間の出来事だった。


 少年の狙っていた手が盤上に放たれる。


 そして同時に隣でも、魁人が隙を見せた一瞬を突くように、少女が攻勢へと転換して王手飛車を仕掛けた。


 ──人が騙されるとは、こういう瞬間を言うのだろう。


「えっ?」

「あれ……?」


 そんな勝機を見出したはずの子供二人は、佐久間兄弟の用意していた罠に嵌った。