第14話

ぺろり。生温く、ざらりとした感覚に、サイモンは目を開ける。


「……」


何だ。これ。

眼前に広がる光景に、サイモンは何度も瞬きをする。それが大きく茶色い毛であることにようやく気が付き、手を伸ばす。太そうな毛は剛毛そうだが、想像よりも触れた毛は柔らかかった。

サイモンはゆっくりと視線を下にずらす。


「……ぅおおう!?」


黒い粒のような瞳と目が合い、顔に鼻息がかかる。相手が生き物であることに気が付いたサイモンは飛び起きた。慌てて後退れば、その正体が露わになった。

(ビ、ビーバー……?)

すぴ、と鼻を鳴らすのは、茶色い身体をしたビーバーだった。警戒心の強い彼等がどうして、とサイモンは驚く。


森には通常、〝モンスター〟と言われる害獣と、害を持たない‷野生動物〟がいる。大きな違いとしては、人を襲うか襲わないかだが、それとは他に肉食か草食かが分けられる目安になっている。肉食である〝モンスター〟は、進化に進化を重ねて、より凶暴と化している。また、魔力を持つ個体もおり、それらがどこから来ているのかはよくわかっていない。

対して草食である野生動物は、比較的穏便な性格をしているが警戒心が非常に強い。だから例え相手が無防備だったとしても〝人間〟に近づくことは少ない。


じいっと彼の目を見つめ返す。何か真意がないだろうかと見つめてみたが、真っ黒な目になぜか吸い込まれそうな気分になる。ブルブルと頭を振ったサイモンは、その目で彼の足元の毛が濡れていることに気が付いた。

周囲を見渡せば、ここは波打ち際からそう離れていない砂浜。どうりで身動きがとりにくいわけだ。あと少し……否、だいぶ熱い。土や石づくりとは違って歩くのにも一苦労するそこは、普通に生きていれば馴染みのない場所だろう。サイモンも例外ではない。


「もしかして、お前が助けてくれたのか?」

「……」


すぴ、と鼻が鳴らされる。返事をしているのか、それとも何か伝えたいことがあるのか。……わからない。全くわからない。

どうにか意思疎通が出来ないかと見つめていれば、ビーバーはもう一度ヒクリと鼻を動かすと、のっそりと森の方へと体を向けてしまった。慌てて感謝の言葉を叫んだが、彼はもううんともすんとも言わなかった。その背中にサイモンはふっと笑みを零して、立ち上がった。

ぐっと大きく伸びをする。水平線の向こうは美しく、空と海が交じり合っている。どうやら嵐はとっくに収まっているらしい。ベトベトとする体を綺麗にしたサイモンは、周囲を見渡す。


「さて。ここはどこだ?」


なんだか見覚えのあるような場所だが、そんなの旅をしていればよくあることだ。地図を見ていないから、時々方向を間違えて同じ場所に帰ってきてしまうこともあることだし、気にするようなことでもない。否、いつもなら気にする必要がないだけで。

(……王都に行くには、もう少し時間がかかるな)

今は目的がある以上、場所の特定を急ぐ必要がある。あの嵐から何日経ったのかもわからないが、早く動くに越したことはない。

まずは人を探そうとサイモンは砂浜の広がる方ではなく、森の中へと入って行く。森に入ったのは勘だ。こっちの方が人が居そうだな、という勘。しかし、そういう勘をサイモンは外さない。

見覚えの在りそうな森を見渡しながら歩いていれば、次第に建物の屋根が見えた。人が作った家だ。比較的綺麗なところをみるに、人は住んでいそうである。

サイモンは心底安堵し、足を進めていく。サイモンの荷物が剣を含め、何一つもないことは起きてからすぐに確認済みだ。そもそも、あんな濁流に飲まれて残っている方がおかしい。鞄は船室に置いてきてしまったから、あるわけもない。靴の中に隠していた小銭が残っていただけでも、良しとしなければいけない状況だった。


「ん?」

ふと、倒れている木々を見つける。強引に根元からなぎ倒されたような感じに、天災でもあったのかと推察する。どう見ても人の力ではない。魔法でやったのかとも思ったが、特にそういった痕跡は見当たらない。

(まだ新しいな)

もしかしたら町は大変なことになっているかもしれない。サイモンはそう考えながら歩き、森を抜け――驚きにあんぐりと口を開いてしまった


「……ここは」


見たことがあるはずだ。

サイモンが運よく流れ着いたのは、居心地がよく珍しく長居をしたビーバーの町だったのだから。



まさかこんなところに戻ってくるなんて。サイモンはそう思いつつも、目の前に広がる光景に驚きを隠せないでいた。

瓦礫に埋もれた家々。屋根は吹き飛び、塀はただの石と化している。見覚えのある店も、泊まった宿屋も、ほとんど形を成していない。サイモンが目印にやって来た屋根の家も残っていたのが上部分だけで、今にも崩れ落ちそうになっていた。町の人は、忙しそうに瓦礫を避けたり、協力して中の物を引っ張り出そうとしていた。サイモンは近くを通った男に声をかける。土で汚れた服を着て、肩まで腕まくりをした男は、サイモンを見ると「おお」と目を見開いた。


「兄ちゃん、戻ってきたのか!」

「あ、えっと」

「オイオイ、忘れちまったのかァ? 活きの良い魚を七匹も買ってってくれたじゃねーか!」

「ああ!」


男の言葉に大きく声を上げる。どうやら男はいつしかの魚屋の店主だったらしい。

全然気が付かなかった、とサイモンは男を見る。髭は手入れが出来ていないのか剃られておらず、頬や額にも土がついている。会っていないのはたった三年なのに、一気に老けたように見える。


「それにしても兄ちゃん、最悪のタイミングで来ちまったなぁ」

「何かあったのか?」


魚屋の店主の話に寄れば、どうやら二日前に嵐を伴った竜巻が襲って来たらしい。そのおかげで家はめちゃくちゃ。商売するにも商売道具も全て吹き飛ばされてしまい、今は復興で手いっぱいなのだとか。幸い、食料を備蓄していた建物は無事で今のところ食うには困っていないが、それもいつまで続くかわからないということだ。


「ったく。そんな予兆、全然なかったっつーのによォ」

「そんなに突然だったのか?」

「突然も突然だ! 真っ青な空が一気に曇ったかと思ったら、雷だの雨だの降って来てもう散々さ!」


サイモンの問いに答えたのは、果物屋の女店主だった。彼女は家も店もかなり損傷してしまった上、大事にしていた木々も全てなぎ倒されてしまったようで、怒り心頭と言ったところだ。

次々に不満を抱えた町の人たちがサイモンの元へとやって来ては、挨拶もそこそこに天災への文句があちこちから湧き上がる。最初は、真面目に聞いていたサイモンも、あまりの勢いに徐々に耳が閉じていってしまう。天災への文句の中にぽつぽつと混じる身体の不調は、恐らく『祝福』がなくなったことによる影響だろう。膝や腰が痛いと言っていた者たちは、全員前よりも老けた印象を持っていた。

(この町の人は『祝福』がなくなったことを知らないのか?)

もしかしたらまだ小さな町村には情報が届いていないのかもしれない。こういうところの情報源は、大抵旅をしている商人たちや見回りの衛兵たちだからだ。商人は耳が早いから、天災が起きたことを知れば、荷物にもよるがまず町には来ない。

事情を知った衛兵くらいは様子を見に来てもおかしくはないが……王都が閉鎖したことで混乱していて、それどころではないのだろう。


「そういやぁ、シスターのところは大丈夫かねえ?」

「!」

「一応シスターと子供たちは避難してるって聞いてるけど、あの状況じゃあ、元の家に住むのは難しいかもしれないなぁ」

「あそこは一番海に近いからね。被害は一番だろうよ」


町の人たちの言葉が、サイモンの耳に刺さる。そうだ。どうして忘れていたのか。ビーバーの町はでっぱりの先端にあるような町だ。海から近いとはいえ、あまり近すぎては家や農作物が駄目になってしまうのが早い。そのため、町は少し奥まった場所にあるが、孤児院は町より少し海に近い場所にある。被害は甚大のはず。

サイモンは慌てて町の人たちに礼をすると、孤児院のある方へと走った。足に引っかかる雑草を引き千切る勢いで足を出し、倒れる木々の合間を縫っていく。足にブーストを掛けたが、いつもより低い威力に大きく舌を打つ。

丘が見え、そこにはさっき自分を助けてくれたビーバーが寝そべっていた。彼の背中を見て、サイモンはさらに加速する。


「っ、はあ、はあ……」


サイモンが辿り着いた先にあったのは、建物の上半分と左半分を失った、孤児院の残骸だった。

屋根は全て吹っ飛び、古かった壁は全て薙ぎ払われてしまったのだろう。森の木々が倒れるくらいだ。古い孤児院なんてひとっ飛びだったはず。孤児院の状態を思えば、正直、こうして形だけでも残っているのが不思議なくらいだった。

サイモンは残骸に近づくと、中を伺い見る。何の木片かもわからないものが床に散らばり、物があちらこちらに散乱している。高い本も子供たちの椅子も、全部ひっくり返されており、到底住めるような状況じゃない。食事を共にした場所もなくなっており、小さな寂寥感がサイモンの心に顔を出す。

(みんな避難したと言っていたが、英断だと言わざるを得ないな)

流石にこの状況じゃあ、建て直しになるだろう。


「あれ? サイモンさん?」

「!」


不意に聞こえた声に、サイモンが振り返る。

そこにいたのは、記憶よりも少し大きくなったアリアだった。