『久居は今回の災厄を避けるために不可欠な人材だ』と、カロッサは言う。
世界の調和と平和を守ることを、種族全体の行動指針と捉えている天使達にとって、世界の破滅を防ぐ事は、もちろん最優先事項だ。
しかし、闇の者の存在を報告することも、また、世界の破滅を防ぐために欠かせない、最優先事項だと、レイは教えられて育った。
「はぁぁ……。どうしたらいいんだ」
レイが何度目かの大ため息と一緒に頭を抱える。
カロッサも交え、四人と一匹で膝を突き合わせてみるも、これという解決策は見つからない。
「ひとまず闇の血が覚醒するまでは報告を待ってもらうとか……」
というカロッサの意見は、環に闇色が染みている時点で能力は覚醒していると判断され却下となり、
「なるべく穏健派の上役にのみ、そっと報告する」
というレイの意見もリルの猛反対を受け、
「天啓を行使して、危機回避までレイに報告を待ってもらう」
という久居の意見も、優先順位が同位のため不可能だと告げられる。
リルの「じゃあもう、レイに忘れてもらおうよ」という意見に、全員頷いてしまいそうだった。
「忘れられたら、楽なんだけどな」
レイの言葉に、久居がゆらりと立ち上がり、これ以上ないほど優しく告げる。
「では……忘れてみますか?」
レイが強烈な悪寒に飛び上がった。
「いっ、いやいやいや! 待て待て、それはどんな忘れさせ方だ!?」
「そうですね、薬を使う方法もありますが、今回は手持ちがありませんので、記憶が飛ぶほど酷い目に遭うというのでいかがでしょうか?」
「じ、冗談……だろ……?」
冷や汗まみれになったレイが、震える声で聞き返す。
「冗談です」
答えて、ストンと久居が座り直した。
「…………」
レイは動揺からか言葉がない。
ハラハラしていたカロッサはホッと息をつき、リルはなぜか残念そうにしている。
「えー、もうそれでもよかったのに……」
「っっっよくないだろ!!!」
叫んだレイが、上がった息を整えようとしている。
「ですが、記憶がないのは本当です」
静かに告げる久居の言葉に、皆が振り返る。
「私には、所々記憶がありません。幼かったから覚えていないのではなく、肝心なところだけ、抜け落ちているのです」
「久居……」
リルが、久居を気遣うように寄り添う。
「なので、私には、私の親が闇の者であるのかも、滅ぶべき人物なのかも、判断が出来ません……」
レイは、闇の者達は六十年以上前に行われた天界による大規模な掃討作戦で、そのほとんどが死滅したと言った。
生き残ったほんの僅かの者達も、見つかり次第天界に拘束されていたため、地上で何代も生き残っていた可能性は限りなく低い。
つまり、久居の両親のうちどちらかが、闇の者だというのが、レイの見解だった。
「じゃあ、こう言うのはどう?」
カロッサが胸を張り、ピッと指を立てる。
ウェーブのかかった艶のある紫の髪が揺れる。
今は羽も触角も出していたので、その背には髪と同じ色の大きな蝶の羽が美しく広がっていた。
木漏れ日を浴びるカロッサに、レイがうっとりと見惚れているが、今はちゃんと話を聞いてほしいなと、その他全員が思う。
「私が久居君の過去を見てみて、その両親が悪い人じゃなければ、報告は後からにする!」
「でもそれって、結局後から久居が危ない目に遭うんじゃないの?」
リルが口を尖らせて言う。
「そうなんだけどね。レイ君もずっと黙っておくって言うのは難しいみたいだから……」
カロッサが両者にとって精一杯の妥協案という体をとる。
「しかし……人の親が、子の前でそう悪い面を見せる事はないのでは……?」
レイの困ったような呟きに、カロッサが感情の篭らない瞳で告げる。
「あなた達は、例え良い親だろうと、何も知らずに生きてきた子だろうと、闇の者なら容赦なく殺してきたんでしょう?」
「っそれは……」
俺のした事ではない。と思った。
しかし、違う。
それは、俺の報告の結果、これから起こりえる未来だ。
ごくりと、言葉を飲み込み、視線を彷徨わせる。
二十五年前の騒動以降、天界では闇の者は即殺すべきという考えが大多数だ。
今や穏健派はその存在すらも危ぶまれている。
誰も知らなかった闇の者を、俺が見つけたと知れば、義兄はどんなに喜ぶだろう。そんな事をうっすらとでも考えた自分が浅ましい。
義兄は過激派側の人間だ。義兄に知られるという事は、久居が死ぬ事と同義だと、俺は解っていなかったのだろうか。
……何かがおかしい。
そう思った途端、ズキンと頭が痛む。
「……っ!」
久々の強烈な頭痛に、レイは強く目をつぶった。
幼い頃はよく頭痛で倒れていた。
その度、義兄が介抱してくれた。
いつからだろう、頭痛がしなくなったのは。
ズキンズキンと繰り返す痛みはおさまる気配がない。
「レイ?」
久居の声だ。俺を心配している。
なんとか返事をしようと思うが、頭は割れるように痛み、目も開けられず、声すら出ない。
痛みの合間に息をするのが、精一杯だ。
レイの様子がおかしいことに、周りも気付いたらしく、カロッサやリルも声をかけてくる。
手を差し伸べてきたのは、やはり久居のようだった。
心配そうに、少し遠慮がちに、ひんやりした手がそっと額に触れてくる。
体温を診ているのだろうか。
ただの頭痛だ。心配いらない。そう伝えたかったけれど、レイにはどうしようもなかった。
降り注ぐような痛みに、意識が遠のく。
少し冷たい手が気持ち良くて、けれど酷く申し訳なかった。
視界は既に、黒く染まりつつある。レイは久居に心で告げる。
心配しなくていい、すぐに治る。
いや、一瞬でもお前を売ろうとした俺を、お前が心配するなんて、おかしいくらいだ。
こんなの……リルが怒るのも、当…………然ーーーー……。
ぐらり、と揺らいだレイの体を久居が支えた。
がっしりとした体躯の割に、レイはさほど重くは無かった。
「レイ!」
真っ青な顔をした青年は、久居に体を預け、自身の金の髪と白い翼に埋もれるように意識を手放していた。