日課となっている放課後の訓練終了後、僕が水道で顔を洗っていると光明寺先生の使いが僕を呼びに来た。
先生曰く、
ところでさ、僕がこんなヘナチョコで、実質的には対戦車グレネードさんにも小指で負けるレベルだ、ってのが外国にバレたら、国防的に結構マズいと思うんだ。
けど、訓練とかフツーに基地の金網越しに見えちゃうし、ご近所のじいちゃんばあちゃんに時々声援送られたりしてる状況って、僕が言うのもなんだけどセキュリティ上どうなの? って思うわけで。
おまけに、お供えと称する差し入れもゲートの中野さんとこに毎日のように届いてたりとか。主にパパイヤが多いんだけど。そのせいだろうな。基地の食事にパパイヤサラダが増えたのは。
それとも、放課後に「コンクリートを詰めたドラム缶とひたすら格闘する部」で汗を流している僕の様子をご近所さんに見ていただくことで、軍への好感度をアップしてもらいたいとか、健全な海軍少年を演出してると――敵が思うわけねーだろ!
……なんてどうでもいいような良くないようなことを考えながら、いつのまにか僕は事務棟一階にある医務室の前に到着していた。
「ちーす、南方ですー」
『どうぞ』
医務室のドアをノックして声をかけると、中から涼やかな声で返答があった。
光明寺先生の声だ。
消毒薬の匂いが、ドア越しにこちら側へ微かに漏れてくる。
僕はノブを回し、静かにドアを開けた。
「失礼しまーす」
挨拶をしつつ中に入ると、夕方のせいか看護師さんはおらず、先生一人だけだった。
先生はいつもの白衣姿でイスにゆったり座っていた。
先生は意識してやっているのか分からないけど、この優雅さが僕に安心感を与えてくれる。
「南方少尉、おつかれさま。さ、そこに座ってちょうだい。
いま冷たいものでも持ってくるわ」
先生は患者用の丸イスではなく、隣の席の医師用イスを僕に勧めた。
もうとっくに仕事が終わっている時間なのに僕を待っていてくれたのかと思うと、呼び出されたとはいえ、先生に少し申し訳ない気持ちになった。
先生は冷蔵庫から、いま島で人気のドリアンボンバーソーダを二本持って来てくれた。
こってりまろやかな中に刺激的なフレーバーと強炭酸というクレイジーなドリンクだ。
カメクラのバーでも良く売れてるけど、ビビリな僕はいまだにドリアンボンバーバージンである。
「いただきまーす」
僕は、勧められるままプルトップを引き上げた。
そして先生も開けた。
医務室に、良く言えばトロピカルな香りが充満していく。
どうなんだ……コレ。
僕が躊躇しているのを見ると、先生はウフフ、と意味深に笑って一口含んだ。
「そんなに怖がらないで。誰も飲めないようなモノなら、こんなに流行しないわよ」
「そりゃ、そうですけど……」
「大したリスクもないのに、かすり傷を恐れ、机上の空論を繰り返して、結局冒険しない。それが君の悪い癖よ」
いつ、そんな……。ああ、みなもに聞いたのかな。
先生は僕の内心を見透かしたまま、言葉を続けた。
「安易にリカバリー出来る程度のリスクなら、下を見ずに飛ぶの。そうすれば、君の世界はもっと広がる。貴方は、自分で思うほど弱くなんかないのよ」
僕は大きく息を吸い込んで、吐き、缶を口に運ぶ。
唇に冷たい感触。
恐る恐る流し込んだ液体が口腔内で幾百も爆ぜ、喉に落ちていった。
……味なんて、分からなかった。
でも僕もみんなと同じように、コイツを飲むことが出来た。
その事実が、やけに嬉しかった。
「おいしい?」
先生は小悪魔のような笑みで僕を見ている。
反応を楽しんでいるのかな。
「味……ぜんぜんわかんなかった」
「そう」とだけ言って、小さく頷く先生。
「でも、飲めた」
「ええ。立派だったわ」
先生は満面の笑みで僕を褒めてくれた。
ただ変わった味のジュースを飲んだだけなのに、なにかとてもすごいことを……たとえばエベレスト登頂クラスの偉業を成し遂げた気がして、目から涙がいっぱい溢れた。
先生は、僕が落ち着いた頃を見計らってから、軽く検診した。
思いの外カンタンな検診だったから、僕は拍子抜けをしてしまった。
もっとも、僕がみっともないマネをしたせいでカンタンに済ませたんだとしたら、悪いことをしちゃったな。
……なんて思っていると、先生がおもむろに話を始めた。
「今日はね、私の話を聞いて欲しくて呼んだのよ」
先生は胸元のペンダントをいじりながら、ちょっと言いづらそうに僕に言った。
彼女の琥珀色の瞳が心なしか揺れている。
ペンダントは平たい楕円形の銀色の金属で、キャンディのようにつるっとしていた。もしかしたら、これは中に写真か何かを入れるタイプ(多分ロケットとかいうやつ)かもしれない。
「……僕に、ですか」
一体どんな話を聞かされるのだろう……。
僕は緊張した。
まさか、僕に告白……なんてことはないよね、先生。
でも、その恥じらいは一体何なんだろう。
「私ね。夢があったの。医療従事者としての……ね」
はぁ、そういう系か。よかったぁ。
先生には何かと救われてるし、感謝してるし、すごく優しくしてもらってるから、先生にお願いされたら……、僕はきっぱり断れる自信がなかった。
「私、ここに来る前、父の遺志を継いで遺伝子工学の研究をしていたの。
主に、難病を治す方法を探していたわ」
別に、全然恥ずかしい内容じゃないじゃん。
むしろ、社会に貢献する立派なお仕事だ。
「すごいです、先生」
「すごくななんかないわ。すごかったのは……私の父。
とても画期的な発見をしたの。皇国の医療の歴史が一気に塗り替えられる程のね。
……でも、世間は認めてくれなかったの」
先生は、さみしそうに視線を床に落とした。
「どうしてですか?」
「父の研究には、ある重要なものが必要だった。
それは決して犯してはならない、禁忌の素材だったの」
「…………禁忌の素材?」
僕は、ごくりとツバを飲み込んだ。
「それはね、…………神の細胞よ」
光明寺先生は、とんでもないことを言い出した。
「先生ッ、それは……それは、すごくやっちゃダメなやつだ」
「そうよ。だから禁忌なのよ」
「禁忌……ですね、確かに。
そんなこと出雲政府が許さない。神族を材料にするなんて」
「しかし、それを使えば、数多くの人間が救われる。
驚異的な再生能力を持ち、老化をも寄せ付けない人外の組織。
ほんの少しでも協力してくれる人、いや神がいてくれたら、父の研究は闇に葬られることもなかったし、汚名を着せられることもなかった」
先生は目に涙を浮かべ、白衣の太股のあたりをぎゅっと握りしめた。
お父さんが汚名を着せられるだなんて、先生はすごく悔しかったにちがいない。
「…………」
僕はこんな悲しそうで辛そうな先生を初めて見た。どう接していいのか分からなくて、かける言葉がしばらく見つからなかった。
「威くん、お願い……。父の無念を晴らしたいの」
先生は僕に懇願した。「力を貸して」
「力……」
……だよな。
この話の流れでいったら、絶対そうにしかならないよ。
最初からそのつもりで、僕をここに呼び出したんだ。
人払いまでして。
――でも先生のお願いなら、聞いてあげるに決まってるだろ。
答えはひとつしかない。
「泣くことないでしょ、先生。僕が泣けなくなる」
僕は、先生の悔しそうな拳を、ひよこでも包むように、両手でそっと握った。
「もちろんOKです。僕を好きに使って下さい」
いけないことだとは分かってるけど、僕は先生の願いを叶えてあげたかったし、お父さんの無念も晴らしてあげたいと思った。
でも一番僕を動かしたのは、みんなの役に立てるってことだった。
今の僕は、軍じゃただのお荷物で、張り子の虎で……。
だから、誰かを救う役に立てるなら、喜んで血の一リットルや二リットル、肉の百グラムや二百グラム寄付したっていい。
僕だって、みんなの役に立ちたいんだ。
僕はこの後、急いで採血と細胞の採取をしたんだ。
伊緒里ちゃんがカメクラで待っているから。
採取っつったって、口の中を耳かきみたいのでコリコリしただけだ。
また後日、別の所を取るってことで、今日はお開きになった。