お父様と侯爵の遣り取りにもどかしい気持ちを抱えたまま、ぼんやりと、二人の会話を聞いていたら、ルーカスさんとぱちりと視線があった。
ふわっと、此方に向かって少しだけ笑みを溢しながら私の方を見てくるルーカスさんに気を取られていたら……。
「それより皇女様、うちの
と、エヴァンズ侯爵から不意に言葉が降ってきて、私は思わず意識を引き戻す。
その言葉の意味がどういう意味で発せられたものなのか今一よく分からなくて、首を傾げるしか出来ない私に対して……。
「私が家を留守にしている間に、勝手に婚約者候補として立候補して、勝手に皇女様のマナー講師にまで名乗り出たと聞きました」
と、侯爵から言葉が続けられる。
その内容にようやくどういう意味でその言葉を侯爵が私に対して伝えてきたのかが理解出来て。
「いえ、ルーカスさんにはダンスの練習なども含めて、日頃からとてもお世話になっていて、助かっています」
「……いえ、皇女様、ご謙遜を。
マナーに関しても本当に俺はダンスを教えた程度で……。
皇女様が殆ど完璧にマスターされているくらい優秀で、これまでに勉強もしっかりされてきていたのは分かっていますから。
どちらかというなら皇女様の今までの頑張りを思えば、俺が“講師”と勝手に名乗っていいものなのかも……」
侯爵に対して慌てて、ルーカスさんには日頃からお世話になっていることを説明すれば。
すかさず、ルーカスさんからさらっと自分の事を落として、私のことを褒めてくれるような言葉が返ってきた。
いつも、“お姫様”って呼ばれているから、正式な場でこんな風に畏まったルーカスさんから皇女様って呼ばれると何だか変な感じがしてしまうな……。
それより、私の婚約者候補としてルーカスさんが立候補してくれたのって、エヴァンズ侯爵も知らないことだったのだろうか……?
その事の方が驚きで、思わず目を見開いて……。
「あの、勝手に婚約者候補として立候補、した、というのは?」
と、問いかければ。
「えぇ、私が外交などで家を空けることが多いものですから。
実質的に今、家に関すること、エヴァンズ家の領地経営などについてはルーカスに一任している部分なども大きいのです。
……それで、在る日突然、ルーカスが事後報告として陛下に話を持ち込んだと私に報告してきましてね。
ルーカスが、皇女様の婚約者として立候補するのはウィリアム殿下と皇女様との対立を避ける目的で。
皇帝陛下に忠義を誓っているエヴァンズ家の一員としては正しい在り方ではあったと思いますが、皇女様の年齢を考えると些か急だったのではないかと心配しておりまして」
侯爵からすかさずそんな言葉が返ってきて、私がその言葉に戸惑っていると……。
「おやっ……父上、今、そのような話をする必要あります?」
侯爵の言葉にここまで、ポーカーフェイスだったルーカスさんの表情が一瞬崩れたあとで。
多分『親父……』って言いかけて、父上に言い直したあとで、侯爵に向かって少しだけ疲れたような声色で話すルーカスさんの珍しい姿が見えて私は目を瞬かせた。
「あ、あのっ……その件についてはルーカスさんに甘えて、返事を保留にして貰っていて」
「えぇ、皇女様がご自身の未来のことを思って悩まれるのは当然ですから。
仮に我が家と縁を結ぼうとされなくても構いませんし、色々と考えた上でお決めになって下さい」
エヴァンズ侯爵の話を聞いていると、本当にあくまで私の年齢のことを心配してこうして話題に出してくれただけなのだろう。
そのことに内心で安堵しながらも。
エヴァンズ家が歴代の皇帝に忠義を誓ってきた家柄というのは、こういう時にも体現されているのだろうな、というのが侯爵の言葉からも窺うことが出来た。
【“バランサー”と表現した方がいいだろうか】
今回の場合でいくと、私とウィリアムお兄さまの仲に亀裂が入ってしまう可能性なども考慮して、事前にこうやってエヴァンズがそっと介入することで、バランスを取ろうとしてくれているのだろう。
本当の意味で皇族である私達のことを考えて、動いてくれているというのが……。
古くからのエヴァンズ家としての役割なのだろうか。
前にお父様から聞いた『エヴァンズ家は、どこにも属さず、中立の立場を維持しながら歴代の皇帝に忠義を誓って尽くす』という言葉の意味が理解出来るような気がした。
私が巻き戻し前の軸で見てきた貴族の人達は何かしら全員が全員、腹に一物を抱えたような……。
自分たちに利のあるようなことならば、そこに飛びついてしまうようなそんな人達ばかりだったけど。
エヴァンズ家は、必要以上に政治に介入するようなこともなく。
また、誰か特定の人間にだけ肩入れするようなこともなく。
必要なときにそっと、私達皇族のフォローをすることで。
他の貴族とは一線を画すような、あくまでも公平であり、公正な状態を常に保っている。
「心配して下さりありがとうございます。
これから先、どのような判断をするにしても、エヴァンズ家が皇族である私達のバランスを取るためにこうして提案して下さっていることを有り難く思います」
にこっと、私が笑顔を向ければ、エヴァンズ侯爵は一瞬だけ驚いたような表情を見せたあとで、穏やかな笑顔を向けてくれる。
その視線は、さっきと同じでどこまでも優しい物だった。
「妻やルーカスからも聞いていましたが、皇女様が成長と共に聡明にお育ちになられていること、心から嬉しく思います」
「……オイ、アリスは私の娘なんだが……?
お前が父親のようなことを言うな」
エヴァンズ侯爵が私に向かって、声を出してくれれば、お父様がその横で、少しだけ唇を尖らせるのが見えた。
二人のその遣り取りに、思わずルーカスさんとお兄さまの遣り取りが重なって見えて、私はお父様のあまりにも珍しいその表情の変化にきょとんとした後で、ふふっ、と小さく笑みを溢した。
「……アリス?」
「あっ、も、申し訳ありません、お父様。
……まるで、ルーカスさんとウィリアムお兄さまの会話を見ているみたいで」
私が声を出せば、エヴァンズ侯爵とお父様のみならず、ルーカスさんも目を見開いて驚いたような表情を見せてくる。
「……まぁ、エヴァンズと私は幼なじみだからな」
「えぇ、陛下。……懐かしいですね」
「えっ? そ、そうだったんですか?」
「あれ、お姫様……知らなかったっけ? あだっ、親父っ、……父上、耳、耳っ!」
「皇女様に向かって、お前は何て言う口の利き方をしてるんだっ!?」
ルーカスさんが普段通りに私に向かって、声をかけてきた瞬間。
エヴァンズ侯爵がルーカスさんの耳を思いっきり指で摘まんでいるのが見えて。
私は思わず違う意味でハラハラしてしまう。
ルーカスさんの耳が真っ赤になっているのを見ながら、“わっ、痛そう……”と内心で心配していたら。
「……失礼しました、皇女様。……あーあ、もう本当っ、うちの父親は、融通が効かないんだから」
と、ルーカスさんが茶目っ気たっぷりに微笑んだあとで、私に向かって声を出してくれるのが聞こえて来た。
雰囲気的に、今日は公式の場ということもあり、真剣な表情を見ることの方が多くて。
さっきエヴァンズ家の病気だという親戚のことを聞いて、ずっとルーカスさんは大丈夫なのかなと、心配していたから……。
普段通りの姿が目に入って、私はどっちかというなら心の中で安心していた。
でも、そっか……。
ルーカスさんがお兄さまと幼なじみであるのと同じで、侯爵とお父様も幼なじみの間柄だったんだ。
巻き戻し前の軸では知り得なかった情報が唐突に入ってきたことに驚きながらも、お父様が侯爵のことを『お前』と呼んでいたり、何となく、二人の遣り取りを見ていると、気心知れたような感じもしていたから……。
そう言われても全然、可笑しな話ではないのだけど。
それでも、お父様が誰か特定の個人と親しいと言われると不思議な感じがする。
「陛下の娘であるならば、私の娘でもあることと一緒ですからね」
「オイ、何なんだ、その暴論は?」
「いえ、ですが、ルーカスともしも婚約することになったら。
……名実ともに皇女様は私の娘になるかもしれないでしょう?」
「……まだ、そうだと決まった訳ではないだろう。
少なくとも、今の段階でお前にアリスの父親を名乗る資格などない筈だ」
そうして、しれっと声を出してにこりと笑うエヴァンズ侯爵に、私は隣にいるルーカスさんと侯爵の二人を思わず見比べてしまう。
お父様を少しだけからかっているようにも思える侯爵のその雰囲気に。
【あ、ルーカスさんが2人いる】
と、思わず、私は納得してしまった。
私の反応に、思う所があったのか、ルーカスさんが私の耳元で。
「ねぇ、お姫様。
……今、もしかしてだけど、俺が2人いるとか思って無い?」
と、問いかけてきて、その言葉に
【どうして分かったんだろう?】
と、驚いて目を瞬かせる私に。
「あぁ、やっぱりか……」
と、声に出してそう言ったあとで、『そんな気がしたんだよなぁ……』とルーカスさんが苦笑してくる。
話をする前の、真面目な侯爵のイメージは崩れ去って。
エヴァンズという家名を背負っていないときはこんなにもお父様に対してもフランクな感じなのかと、良い意味でびっくりしてしまった。
それと同時に、やっぱりルーカスさんって、凄く愛情のある家庭に育ったんだなぁ、って何となく侯爵とルーカスさんの2人の遣り取りからも漠然と理解した。
ルーカスさんがぽろっと、侯爵に向かって『親父』っていうのも。
侯爵がルーカスさんの耳を思いっきり引っ張るのも、そのどこにも遠慮っぽい雰囲気は無くて……。
家族としては凄く仲がいいことの何よりの証明だろう。
――そのことが、何だかちょっとだけ、羨ましい。
私が2人に対して、そんな風に感じていたら。
お父様と侯爵が少し言い合いのような形で会話をし始めたことに、私が手持ち無沙汰になったと思ったのか……。
「……そういえば、お姫様、今日のダンス凄く良かったね。
勿論、お兄さんのリードもあってのことだけど、いつの間に、お兄さんと、あんなにも難しい東の国の踊り、マスターしてたの?」
と、ルーカスさんの方から話題を変えて、声をかけてきてくれた。
その言葉に思わず、ずっと、後ろに控えてくれていたセオドアに視線を向ける。
私の視線を受けて、セオドアもルーカスさんへと視線を向けてくれた。
「あ、それは、その、マナー講師のことも、あって」
きちんとした事情を話すわけにはいかなくて、言葉を濁すように私が伝えると、それだけで、察しの良いルーカスさんも気付いてくれたのだろう。
「あー、成る程ね。
……何が言いたいのかは何となく理解したから、それ以上、言わなくていい」
「というか、姫さ……アリス様が東の国の難しい曲を踊れたのは今までの努力の結果です。
俺は特別、何もしていない、ので」
「……あー、うん。お兄さんに敬語喋られると凄い変な気分だよ」
「安心しろ、俺もだ。……なんで、一々、お前に敬語喋らねぇといけねぇんだよ」
「うわっ、唐突に、口、わっるっ!」
私の言葉を聞いたルーカスさんがにこりと笑って、私に対して言葉をかけてくれたあと。
セオドアが一生懸命、敬語を喋ってくれているのが聞こえてきて、そのあまりにも珍しい光景に私がびっくりしていると……。
ルーカスさんも違和感を感じたのだろう。
私とセオドアだけに聞こえるような声量で声を出してくるのが聞こえて来て。
それに対して、セオドアもあっさりとさっきまで喋っていた敬語を取り払い、ルーカスさんと私にだけ聞こえるような音量で言葉を出してくる。
普段通りの2人の遣り取りに、お父様に挨拶で来てくれる貴族のことを一生懸命覚えなければいけないと緊張していた気持ちが一気に崩れて、思わず和んでしまう。
「ふふっ……」
と、小さく声に出して微笑めば……。
毒気を抜かれたような表情を浮かべるルーカスさんとセオドアの姿が見えた……。
あともうちょっとだけ、お父様と貴族の人達の遣り取りに耳を傾けなければいけないけど。
これで、この後も頑張ることが出来そう……。
2人のお蔭だな、と内心で思っていたら……。
丁度、お父様と侯爵も遣り取りが一段落したみたいだった。
「では、陛下、皇女様、私達は一先ずこれで失礼します」
「あぁ、二度と私の娘の父親を勝手に名乗ろうとするなよ?」
――あれから、一体、2人でどういう内容の話をしていたのだろう?
セオドアとルーカスさんに気を取られて、お父様と侯爵の会話を一切聞いていなかった私は、2人の遣り取りに目を瞬かせたあとで、此方に向かって胸に手を当てて礼をしてくる侯爵に、慌ててお辞儀を返した。