周囲の人たちからの視線を感じながら、ダンスを踊るということ自体が初めてのことなので、緊張感はどうしても出てしまうのだけど。
それでも神経を研ぎ澄まし、周りの雑音をなるべく自分の耳から聞こえないようにかき消して、私はオーケストラが奏でる音に集中することにした。
ワルツ特有の3拍子で奏でられる優雅な音楽に、お兄様とコンタクト・ホールド(向かい合って手を取り、組み合った状態)で呼吸を合わせ。
回転のステップを多用しながら、大きなカーブを描くようにフロアを踊っていく。
ルーカスさんとこれまでにも一生懸命に、練習したからか。
今日が一番上手く、音楽に合わせて踊れているような気がした。
お兄様のリードで、私のドレスにふわっと空気が入り、靡いていくのを感じながら、ダンスに集中すれば。
穏やかな視線でこちらを見てくれるお兄様とかちりと視線が合って、自然と周りの人たちの視線はあまり気にならなくなっていく。
「アリス、練習した甲斐もあって、上手に踊れているな?」
お兄様から、小声で私にだけ聞こえるように耳元で言葉が降ってきて、私は、こくりと頷きながら、ふわっと笑みをこぼした。
「ありがとうございます、お兄様。
……お兄様のリードがとても上手なので、きっと、そのお陰です」
ダンスに集中しながらも、お兄様の言葉に声を返せるくらいには、余裕が出てきていることに自分でも内心でホッと安堵していた。
私とルーカスさんのダンスの練習をずっと見てくれていたというのもあるのか。
それともダンス上級者だから、誰に対しても合わせることが出来るのか……。
【お兄様のリードだと、本当に動きやすいなぁ】
と、思う。
練習に付き合ってくれたルーカスさんの時も思ったことだけど、相手にスマートにリードして貰えるだけで、こんなにもダンスの踊りやすさに差が出るものなんだということに……。
私にダンスを教えてくれていたマナー講師と比較して、気づいた。
それでも、目の前で簡単にダンスをこなして優雅に踊っているお兄様ほど、私自身には余裕がなくて。
一生懸命に足を動かしたり、手の動きや、ぎこちなく見えないよう滑らかさに気を付けて踊っているので、これでもいっぱいいっぱいなんだけど…。
曲も終盤に差し掛かり、何事もなく無事にダンスを終えられることに安心しながら。
私は最後の瞬間まで、手や足の細かい動きに気を付けながら、ダンスを踊り。
優雅にこの場を彩るように流れていた音楽が途切れたその瞬間、観客としてずっと見てくれていた貴族の方たちに、お兄様と合わせて、ぺこりと、お辞儀をしてご挨拶をする。
踊り終えた充足感を感じるよりも……。
シーン、と一瞬で静まり返ったフロア内に、どんな風に周りから見られていたのか分からず、内心でドキドキしていたら。
パチパチ、と一番最初に拍手をしてくれたのはテレーゼ様で。
テレーゼ様の拍手を皮切りに、フロア全体に拍手が広がって、やがて会場を包み込むくらい大きな物に変わっていったことに私は内心で安堵していた。
「アリス。
……今日の主役に相応しいほど、素晴らしいダンスであったな?」
そうして、此方に向かって声をかけてくれたテレーゼ様に私は慌てて声を出してお礼を伝えた。
「あ、ありがとうございますっ、皇后様」
「
ふわっと、テレーゼ様が周囲にいる人達に声をかければ。
「本当にとても素晴らしいダンスでしたな」
「えぇ、ウィリアム殿下とも息ぴったりでっ!」
「皇女様はダンスが得意だとは聞いていなかったので、驚きましたわっ。……こんなにもお上手に踊れるだなんてっ」
と、口々に貴族の方達から褒めるような言葉を貰ったあとで。
「……そうだわっ、是非とも、アンコールとしてもう1曲リクエストさせて下さいっ!」
と、弾んだような言葉で、どこかの貴族の夫人に言われて、びっくりしていたら……。
「あぁ、それはいい。
……今日は輝かしい皇女様のデビュタントです。
差し支えなければ是非とも、もう1曲お願いしたい所ですね」
と、周囲の貴族の人達からお世辞ともとれるような言葉が矢継ぎ早に飛び……。
私は、急に風向きが変わってしまったことに、困惑し、1人で、おろおろとしてしまう。
【……ど、どうしようっ】
テレーゼ様が褒めてくれた事によって、色々な貴族から褒められたことは凄く有り難いことだったけど。
アンコールのダンスなんて、何一つ考えていなくて、用意すらしてこなかった私は。
突然言われたその言葉に内心であわあわと焦りながらも、困ってしまうばかりだ。
こういったパーティーで主催者であるその日の主役が、リクエストでアンコールのダンスを踊るということは
それはあくまでもダンスを上手に踊れる人で、素晴らしいダンスを披露したことにより、人の気持ちを動かせるようなそんな上級者の人に限られると思っていた。
【若しくは、
どちらかというなら、私に対するこれは、位が高い人間への忖度にあたるのだろう。
今日披露したダンスは10歳の私でも踊れるような初心者向けの物ではあるし、自分がそこまで素晴らしい物を披露できた自信なんてない。
私に対して媚びを売ったりするというよりは、今この状況はテレーゼ様に気に入られたいとか。
私を褒めることで、お父様やお兄さまに顔を売りたいとか、そういう考えの人達だろうか。
それか、私のデビュタントだから褒めて花を持たせようと気を遣ったが故のことなのかもしれない……。
アンコールのダンスと言われたら、同じ曲を踊る訳にもいかないし。
同じ相手と踊ることも、基本的にはマナー的にNG、だ。
【今回のワルツに関してはルーカスさんと一緒にずっと練習してきたから、大丈夫だって思えたけど、私が踊れるダンスなんて他には考えつかないし……】
断るのは失礼に当たらないだろうか。
内心でそう思いながらも、ここで踊れるといって失敗してしまった時の方が大惨事になるであろうことは分かっているし。
それならば、今、恥を忍んで1曲しか踊れないということを伝える方がまだダメージは少ないだろう。
私が1曲しか踊れないことを知っているお兄さまもルーカスさんも、私のことを心配そうに見てくれながらも、動けないでいるのを感じて、2人の為にも早めに伝えた方がいいと判断する。
私の事をどうにかして助けてあげたいと思って貰えるだけでも、私からしたら、本当にそれだけで有り難いことには間違いなかったから、意を決して、私が口を開きかけた瞬間。
「アリス、そなたのダンスをこれだけ多くの人間が望んでいるようだ。
……今日はそなたのデビュタント、そなたが誰よりも輝く日。
どうか、そなたと血が繋がっていないという事は
と、テレーゼ様から言われて、私はひゅっと、小さく息を溢したあとで。
どう言っていいのか、分からなくて迷ったあと、押し黙ってしまう。
テレーゼ様の笑顔からは、善意のような物しか感じられなくて、私がダンスを踊れないということを、テレーゼ様は知らないから、文字通り私のデビュタントで花を持たせてくれようとしているのだろう。
【本来ならこういう役目はお母様がしてくれるようなことで、それを代わりに私のデビュタントでテレーゼ様がしてくれているのだと思うと、直ぐには断ることが出来ない】
私のことを考えて言ってくれているのだと、テレーゼ様の醸し出す雰囲気からもその表情からも読み取ることが出来て。
いよいよ、断りにくくなってきてしまった雰囲気に押し流されてしまいそうになるけれど。
もしも、これで失敗してしまったなら……。
テレーゼ様の顔にも泥を塗ってしまうようなことになるかもしれない。
それなら、1曲だけしか準備もしてこなかったと私だけがダメージを負う方がまだマシだろう。
「あ、あのっ……でも、私、他のダンスに関してはそのっ、自信もなくて……。
それに一緒に踊ってくれる方も、いない、かも……しれません、し」
困惑しながら、何とか声を紡ぎ出せば、私の一生懸命な継ぎ接ぎだらけの言葉では通じなかったのだろう。
上手く聞き取ることが出来なかったのか、テレーゼ様が少しだけ困ったような表情をしたあとで、不思議そうに首を傾げるのが見えた。
「アリス?」
『一体どうしたというのだ?』と、言わんばかりに此方に向かって心配するようなその表情に、しっかり、自分の口でちゃんと伝えなければと内心で思いながら……。
意を決して、『私は今日踊った1曲以外はダンスが出来ない』と改めて伝えようと口を開けば……。
「皇女様、皇后様、お話中、失礼します。……
スッと、目の前に跪いて、私のことを助けるように手を差し出してくれたのは、セオドアだった。
「あっ、……セオ、っ……」
普通は騎士がこういう場で主人にダンスを申し込むことはあまりないことだから、ざわりとその場でどよめきが沸き起こるのを感じたけれど。
普段、使わない敬語を使って、周囲の視線などには目もくれず私だけを真っ直ぐ見てくれるセオドアに。
『でも……』と、言いかけて私は唇を閉じる。
何も言われないけど、視線だけで『大丈夫だから、俺に任せろ』と言ってくれているのを感じ取って、私は迷うこと無くその手を取った。
「……テレーゼ様、他の方達もリクエストをして下さりありがとうございます。
それでは
セオドアの手を取ったまま、ふわりと、周囲に向かって笑みを溢したあとで、すっと、ドレスの裾を片方摘まみ、礼を取る。
周囲の人にはセオドアが私の騎士であることは知られているけれど、改めてその言葉を強調しておくことで、セオドアが私を誘ってくれた事の意味に正当性は持たせるようにしておかなければならない。
お兄さまと踊る時は緊張でバクバクしていた内心も……。
セオドアが傍にいてくれるお蔭か。
今は不思議と、この後どうなるのか先が読めないのに、ドキドキするような気持ちも、さっきまで感じていた不安な気持ちも軽減されていた。
【セオドアに、大丈夫って言われたら、本当に大丈夫な気がしてくるから凄く不思議】
心の中でそう思いながら、今度はセオドアのエスコートで私はさっきまでお兄さまと一緒に踊っていたフロアの中心まで舞い戻る。
その道中で、セオドアが小さく私の耳元で
「姫さんが、前にいっぱい練習したって言っていた東の方の曲があるだろう? 踊るのはそれにしよう」
と、声を出してくれた。
【……確かにそれなら、私も巻き戻し前の軸で一生懸命練習したからダンスの内容自体は分かってる】
そして、確か今日の演奏者で急遽代打で来てくれる人が東の方の出身で、丁度、その曲が流れることになっていたことも……。
前にお兄さまが私の部屋までわざわざ教えに来てくれて皆で話した時のことを私自身よく覚えていた。
バックで演奏してくれているオーケストラに、私と踊るダンス曲をセオドアが伝えに言ってくれて。
私はフロアの中心でセオドアを待ちながら、頭の中で、マナー講師から教わって既に身体に染みついているダンスの内容を思い出す。
自分のダンスじゃ、さっきまで手や足の滑らかさなどに気を配っていたようなきちんとした踊りは出来ないかもしれないし……。
テンポがずれるかもしれないという不安はどうしても
【こうして踊る機会を与えられた以上は、精一杯、今の自分に出来る範囲で一生懸命踊りきろう】
と、心に決めて私は意識を集中させる。
お兄さまは異国の曲だから、あまりこの曲自体がシュタインベルクの人間からすると聞き馴染みの無い物だと言って言ったけれど。
私にとっては今まで何度も練習してきたものだから、前奏曲も含めて聞き馴染みの深いものだ。
バックで演奏してくれているオーケストラから
【難易度がいきなり跳ね上がってるから、びっくりしてるんだろう、な】
私はこの曲の難易度はお兄さまやセオドアに聞くまでよく知らなかったけど。
さっきまで、比較的簡単な初心者向けのワルツを踊っていた人間が、いきなりチョイスするような曲じゃないと思われているのだろう。
戻ってきてくれたセオドアが自然な動きで私の手を取ってくれて、私はもう片方、自分の空いている腕をセオドアの腰に回した。
曲は前奏曲から、異国情緒のある東の国特有の独特なテンポに切り替わっていく。
そのタイミングで、私はセオドアが“ワンテンポ速く”私の身体をリードしてくれている事に気付いた。
【……あっ、もしかして、セオドアっ。
前に一回、一緒に踊った時みたいに、私のことを誘導してくれてる……?】
前に、ルーカスさんと一緒にダンスの練習をした時、セオドアがワンフレーズだけ、私と一緒に踊ってくれたことがあったけど。
私の身体をワンテンポ速く誘導してくれて、格段に踊りやすくなったあの時と同じように、今、セオドアが私に気を配って動かしてくれているのを肌で感じ取ることが出来た。
流れていくエキゾチックな曲に合わせて、どうしても遅れがちだった私のテンポが、綺麗に曲に合わさって、広いフロアの中を舞うようにセオドアと一緒に踊ることが出来ているのを感じて、私は自然に表情を綻ばせる。
気付けば、踊る前に少しだけ不安に感じていた気持ちもあっという間に吹き飛んでいくのを感じていた。
【嗚呼、どうしようっ。今、凄く、楽しいっ……】
本当は見せる為に周囲の人にどんな風に見えているのかなど、自分の動きをもっと気にかけなければいけないのだろうけど。
誰かに見せる物じゃ無くて、この場の空間には、純粋に踊りを楽しむために私とセオドアしかいないみたいな気持ちになれて、そう思えるだけで大胆になれた。
リズムに合わせて、タン、タンッと、軽快にステップを踏んで。
くるっと、セオドアのリードでターンして……。
風に靡いた、私のドレスに付いたバックリボンがまるで金魚の尾のようにひらひらと舞うのを視界の端で感じながら。
セオドアとだけ向き合っているこの時間に幸せを感じて、ふわっと、顔を見上げれば、私だけを真っ直ぐ見てくれるセオドアの姿に、視線だけでお互いにこの後どうするかの意思疎通を図ることが出来ることに、どうしようもない程の安心感を覚える。
【誰かを信頼して、委ねながら踊るダンスって、こんなにも安定感があるものなんだな……】
初めて1曲、通しで踊るのに、とても初めてとは思えない程、息がぴったり合っている。
勿論、身体能力の高いセオドアが私に合わせてくれている所が大きいのだとは思うけど。
こんなにもダンスを楽しめたのは初めてのことで、私は思わずほわっと、破顔した。
「セオドア、機転を利かせてダンスに誘ってくれて本当にありがとう。
……私が困っていたのを見て、助けてくれたんだよね?」
「あぁ、だけどこれは、姫さんが今まで一生懸命ダンスを練習して頑張ってきた証だろう?
ぶっつけ本番でも俺に合わせてここまで踊れてるなら、基礎的なことは全部覚えることが出来ているってことだからな」
踊りの最中で、セオドアにお礼を伝えようと声をかければ、ふわりと笑いながらセオドアから返事が返ってきた。
「それに、俺も姫さんとだと踊りやすい」
くぐもった声で耳元でセオドアにそう言われて、私もその言葉にこくりと頷き返す。
【……私も、誰よりも、セオドアと踊るのが一番踊りやすい】
目の前で踊ってくれているセオドアが、どういう風に動くのか。
何も打ち合わせも出来ない中で一緒に踊ったにしては、その視線も、その動きも、全ての呼吸がぴったりと一致するのを感じて、内心で感動にも近い様な感覚を覚えながら……。
私は、異国情緒溢れるこのダンスを、がちがちに緊張して意識するようなこともなく最後まで、軽やかに踊りきることが出来た。
【ちょっとだけ、
全部、セオドアのお蔭だなぁ、と思いながら、お兄さまと踊り終わった時の様に……。
私のダンスを観てくれていた貴族の人達に向けて、セオドアと合わせてお辞儀をして挨拶をすれば……。
途端に、ワッという歓声と共に、さっき、お兄さまと一緒に踊った時よりも更に大きな拍手で会場が包まれていくのを感じて、私は内心でホッと安堵の息を溢した……。