砦に帰ると既にローラが晩ご飯を用意して待ってくれていて。
みんなで食事をした後で、そんなに時間もなかったのに……。
旅の疲れを癒やすのにと、即席でローラが用意してくれていた薔薇のアロマ入りのお風呂に浸かって、一日の疲れを癒やしたあと。
私は砦の部屋で、デビュタントの資料に目を通していた。
自分のデビュタントは今回が初めてなので、流れ的な物をきちんと把握出来ている訳じゃなく……。
皇族としてのデビューのしきたりみたいな物もあるし、流れに関しても、一般の社交パーティーとは、結構違っているので、色々と頭の中に詰め込んでおかなければいけないということは勿論分かってる。
【うぅ、目眩がしそう……】
資料に目を通しただけで、ずらっと並ぶ黒色の文字に覚えるのが大変そうだなぁと思いながら、私はその日、一日の流れを把握する。
まずは、会場入りからスタートして、次にお父様が入場してきたら、淑女の礼でご挨拶を……。
そのあと、お父様から簡単に挨拶があって、ネックレスとイヤリングの授与に移る。
そしてダンスを1曲披露したあとで、各参列者に順番にご挨拶を。
そのあとは、自由行動……。
ざっと確認して、その日の予定を、ぎゅっと
【自由行動と言っても、私に自由な時間など存在しない】
参列者の挨拶が一通り終わっても、お父様に話しかけてくる方は大勢いるだろうし。
一度形式的な挨拶を済ませたあとは、侯爵などに囲まれて話すことになるに違いないだろう。
そのあとの予定が、私達だけでは立てられないから“自由”という曖昧な言葉を使って表現されているだけだ……。
【うん、一日の流れはなんとか覚えられそう】
問題は、ぺらりと捲ったその次のページからだった。
……事細かに、大勢来る参列者の情報がずらっと並んでいる。
何とか侯爵、何とか侯爵、何とか伯爵……。
覚えにくい名前と、膨大なプロフィールを一致させるだけで一苦労で。
これでも全員分ではなく、参列者のごく一部、重要っぽい感じの貴族として厳選されてリストアップされているのだろうけど……。
私は内心で、これを丸暗記するのは無理だな、と早々に諦めた。
ウィリアムお兄さまや、ギゼルお兄さまならこういうのを丸暗記するのも得意なのかもしれない。
あ、でもギゼルお兄さまもウィリアムお兄さまと比べられて、かなり苦労していた風だったし……。
もしかしたら、お兄さまもデビュー前、今の私と同じような気持ちになったのかもしれない。
そう思うとなんだかギゼルお兄さまに親近感が湧いてきた。
【全てを覚えることは私には出来ないから、せめて名前と、重要そうな箇所だけ覚えておこう】
特に巻き戻し前の経験から、お父様に話をしに来る人は、大体政治の話とかをすることが多いので、そういった所を重点的に覚えておけば、話題に入れないことはない、と思う。
巻き戻し前の経験を駆使しながら、重要そうな所と、これから来そうな政策を思い出しておけば、政治の会話が目の前で繰り広げられたとしても、置いてけぼりにされることもないだろう。
今の時期や、ちょっと前にお父様がしていた政策を頭の中で必死に思い出し、ペンを取ってノートに思い出せるだけ箇条書きで書いたあとで……。
目の前の何とか侯爵のプロフィールと照らし合わせていく。
そうすれば、お父様がどんな方と懇意にしているのか、狡いけどちょっとだけ先取りするようなことも、何人かは可能だった。
重要そうな人だから、この人達のことは絶対に覚えておかなきゃならないだろうな。
用意された資料の中には、どの貴族がどんな政策に関わってどんな功績を上げたのかなども事細かに記されている。
【これって、多分、ウィリアムお兄さまが基準になっているんだよね】
とても子供に見せるような資料では無く、これがお堅い物であることは私ですら理解出来る。
作ったのはハーロックだとは思うんだけど、作り終わったあとに最終チェックとして、一度は絶対にお父様に見せている筈だし。
これでGoサインが出たということは間違いない。
ただ、巻き戻し前の軸の記憶を思い出してこうして活用することが出来る分、私は恵まれている方だろう。
色々とプロフィールを流し読みしていると、誰がどんな派閥なのかも参考程度に書かれていて、その辺りはこの資料を作ってくれたハーロックに感謝することが出来る部分でもあった。
特に、前皇后であるお母様のことを支持していた派閥の人に関しては、私の事を上手いこと扱いたいって思うような人も多そうだから、注意する意味で名前の横にチェックを入れていく。
……この人達のことは、絶対に覚えていた方がいいだろう。
それから、テレーゼ様を支持している中でも結構多い、魔女狩り信仰派の貴族。
テレーゼ様がこういった貴族について、どんな風に思って居るのかは分からないけど、この人達のこともある程度は頭に入れておいた方がいいんだろうとは思う。
【うーん、そう考えると結構覚えなきゃいけない人が多いな……】
要所要所で重要な所をピックアップして、手元の資料と暫くにらめっこした後で、私は小さく溜息を溢した。
とはいえ、デビュタントまでに優先的に覚えなきゃいけないのは、形式的な挨拶をした後に、個人的にお父様に話しかけてくるであろう、お父様と懇意にしている貴族だ。
他は私の個人的な事で気にかけなきゃいけない人達だから、優先度はガクッと落ちる。
それでも、実際に顔と名前を一致させることが出来るパーティーという貴重な機会を逃したくはないのも本音だった。
お父様から聞いた話では、今回のパーティーには殆どの有力な貴族は参列するということだったし、今名前と顔を覚えておければ、その頑張りはきっと無駄にはならない筈。
これから先、誰がどういう行動に出てくるかなんかも予想出来ない分、覚える人も必然多くなってしまうのは仕方がないだろう。
【あ、エヴァンズ侯爵……】
私が内心でどこまでを覚えようかと、1人、1人の重要そうな箇所に大まかにペンでチェックを入れながら……。
パラパラと資料を捲っていると、エヴァンズ侯爵のプロフィールを発見した。
今まで、全く知らない人達のプロフィールばかり見ていたから、知っている人の名前があると途端になんだかホッとする。
【エヴァンズ家はお父様が言っていたようにずっと、忠実に皇帝に仕え続けている家柄なんだよね】
功績の欄を見るだけでも本当にずらっと輝かしい功績が並んでいて。
それだけでも、エヴァンズ侯爵が特異な立ち位置にいるのだということが分かる。
エヴァンズ侯爵夫人も揃ってプロフィールがあることからも、その異質さが特に際だっていた。
【他の貴族の人は夫人の詳細なプロフィールまでは書かれてないのに……】
お兄さまも言っていたけど、これだけでエヴァンズ夫人が社交界で大きな影響力を持っているっていうことがこの資料からも読み取ることが出来る。
夫人とは会ったことがあるけど、侯爵とは巻き戻し前の軸でちらっと見かけたくらいだった。
ルーカスさんも含めて、私のデビュタントで会えるだろうか。
確か、侯爵はルーカスさんと同じ銀髪ではあったけど、何かこう、もっと近寄りがたいような雰囲気の人だった気がする。
厳か、というか、そんな真面目な感じの……。
……そう思うとルーカスさんのあの親しみやすいのに、掴み所がないようなふわふわとした感じは一体誰に似たのだろう。
【夫人にもそこまで似ているかって言われたら、違う気がする】
元々の性格とかそういうのはきっと親子とかでも違う部分はあるだろうし。
育った環境とかによっても、人の性格って言うのは左右されてしまう部分もあるっていうのは既に自分で実証済みなので、ルーカスさんも、育った環境が大きいのかなぁと思う。
でも、前に家庭環境のことで話を聞いた時、ルーカスさんって幸せそうな家庭で育ってそうな感じだったよね。
【少ししか話を聞いていない私でも分かるくらい、エヴァンズ夫人のことも、自分に仕える従者のことも、賄い飯、?
ご飯? について話をしてくれている時のルーカスさん、とっても楽しそうな雰囲気だったし……】
普段からの、誰かが入って来られないように防御壁を築いて、一定のラインに入ってくる人を表向きは笑顔でやんわりとなのに、実際は無言の拒否にも近い、強制的に遮断するような感じのイメージと。
賄いについて話をしていた時のルーカスさんの家族とのイメージがあまり繋がらなくて、私は首を傾げる。
……まぁ、でも、私がどんなにこうして考えた所でその人の本音の部分や、深い所が分かる訳もなく。
私だってまだ、全部が全部ありのまま、自分の事情を話せている訳じゃないし。
ルーカスさんが隠しているっていうことは、それだけ人に触れられたくないっていうことだけは確かだろう。
【特に自分にとって辛いこととか、その人にしか分からないような事情とかは。
私自身もそういう部分があるだけに、言えないのだという気持ちを尊重した方がいいのだろうな、って凄く思う】
話してもいいかなって思って貰えるようになるまで、待った方がいいのかもしれないということも。
ただ、もしも婚約関係が成立したら、エヴァンズ家の方達とはこれから先も深い関わりを持つようになるかもしれないんだよね。
ルーカスさんの優しさに甘えて。
今まであんまり、そのことも考えないようにして……。
――ううん。
実際には考えなければいけないと思って、何度かこれでも真面目に考えてはいた。
ただ、その度に……。
何て言うか、あんまり、自分自身が誰かと結婚していたり、誰かの隣にいる未来が全く見えなくて困ってしまっていて。
ウィリアムお兄さまにもいつぞや、お前には婚約の話自体が早いと言われたけれど。
確かに巻き戻し前の軸のことも考えて見ても、誰ともそういう経験になったことすら無いから、本当に私の知識って碌な物じゃないんだよね……。
【誰かと恋愛とか想像もつかないし、もっと言うと結婚なんて尚更、誰かの隣にいる私のことが全く見えてこなくて、困る】
別に、恋愛小説の物語の中のようにお互いに想い合って結婚できるケースは、私にとっては稀な話だろうし……。
そもそも、そういう感情もよく分からないし、この先もきっと、誰かとの政略的な物でしかないとは分かっているから、そこは別にいいんだけど。
自分がどうしたいのか、上手く読めないというか……。
婚約の話に後ろ向きになってしまうのは、お母様のことも勿論あるけど、それだけじゃないような……。
胸の中をツキンとした痛みのようなものと、どこかモヤモヤとした物がずっと心の中にあって、それの正体が掴めなくて今、困惑しているといった方がいいだろう、か。
【なんでこんなに、モヤモヤするんだろう……。
お父様の話からも、ルーカスさんの性格を考えても、知らない人に嫁ぐよりは、私にとっては決して悪い話じゃない筈なのに】
だめだ、考えてたらこのまま、時間ばかりが過ぎていってしまう。
内心でそう思いながら、結局、ルーカスさんとの婚約の話を受けるかどうか考えるという答えの出ない堂々巡りの思考回路を今日も手放して……。
私は、ぱらっと再び資料を捲って……。
色んな人のプロフィールを覚えるのを、再開させた。