第71話 幼馴染み



「おにいさま……?」


 お兄様の表情は、私が問いかけるその前にはもう、いつも通りに戻っていた。


「……なぜ、俺が“お前”に八つ当りをする必要がある? 馬鹿なことを言うな」


 冷たいままの視線をルーカスさんに投げかけて。

 お兄様がはっきりと、そう口にする。


「あれ? 俺は別に、殿下が“誰に”八つ当たりをしているかまでは言及していなかったはずだけど?」


 それを聞いてどことなく、楽しんでいる様子のルーカスさんがそう言えば。

 お兄様は、深いため息を溢したあとで、呆れたような瞳でルーカスさんの方を見た。


「それで、俺のことを揺さぶっているつもりか? 巫山戯るのも大概にしろ」


「……あーあ。折角、珍しい姿が見えたと思ったのに、もう戻っちゃったかァ」


 お兄様から、どこまでも、冷たい態度を向けられていても……。

 ルーカスさんの顔色は、良い意味でも悪い意味でも一切変わることはない。


 ただ、お兄様のその言葉に、心底、残念そうな口ぶりでルーカスさんがそう言ったあと。


「……ほんとうに、困ったひとだよねぇ、殿下は」


 ……と。


 苦笑しながらそう言う姿からは、嫌な感じは一切なくて……。


 どちらかというと、気心の知れた人に対する呆れたような物言いに近いだろうか。


 私には全然、何を考えているのか分からないお兄様の些細な感情の変化も分かるくらいに。

 それだけ、きっと、ルーカスさんが、お兄様のことを、本当に良く知っているということの証なのだろう。


 そんな2人のことを、ジッと、見ていたら、ぱちりとルーカスさんと目が合った。


「……お姫様、俺の顔に何かついてる?」


「……あ、いえ。私では分からないお兄様の些細な感情がルーカスさんには分かるんだなぁって、思って……」


「……あー、まァ、殿下とは腐れ縁みたいなもんだからね」


「おい。……さっきの話を俺は認めてないし、違うってことを明確に態度に出していただろうが?」


「そりゃァ、幼い頃から一緒に過ごしてたらねぇ」


 お兄様の言葉を無視して、続けてルーカスさんがそう言ったあとで。

『人の話を聞けっ……!』と、お兄様が怒ったような口調でそう言うのを。


 聞こえているだろうに、ルーカスさんは私に、にこりと人好きのするような顔で笑いかけてくる。


「ルーカスさんはお兄様と一緒に過ごして長いんですか?」


「そそっ。……殿下とは5歳の時に初めて会ってから、以降ずっと幼なじみやってるから」


 お兄様が5歳の時っていうことは、まだ私が生まれてもいない頃の話だ……。

 それが本当なら、もうかれこれ11年くらいは一緒に過ごしていることになるだろう。


「じゃぁ、ルーカスさんは私よりもお兄様と出会ってからの期間が長いんですね」


 ぽつり、と呟いたその一言に、ルーカスさんが驚いたような顔をして此方を見てきた。


「あー。考えた事もなかったけど、そうだね。

 幼い頃の殿下ったら、生まれてくる兄弟にプレゼントしたいからって、四つ葉のクローバーを俺と一緒に探すの手伝って欲しいって言って懇願してきたんだよ?」


「……えっ?」


「……有りもしない出来事を勝手にねつ造するな。

 四つ葉のクローバーを生まれてくる兄弟にあげたいって言い出したのはお前だろうが。

 泥だらけになって怒られたのは誰の所為だと思っている? 本当にお前は昔から、碌な事をしない」


 ルーカスさんの一言にびっくりしていたら、お兄様から突っ込みが飛んできた。


 泥だらけになって怒られるお兄様を、想像することが出来ないのだけど……。


 その表情から、どっちが本当のことを言っているのかは一目瞭然で分かったので、これは、ルーカスさんの冗談なんだな、ということは理解出来た。


 ……それよりも


「ルーカスさんって、ご兄弟がいたんですか?」


「あー、いや。……残念ながら、俺の兄弟としては、生まれて、これなかったんだけどね」


「あ、えっと……ごめんなさい、私、知らなくて」


 苦笑しながら、ほんの少し歯切れが悪くそう言うルーカスさんに、いけない事を聞いてしまったと思って、謝罪すれば。


「大丈夫だよ。別に気にしてないから」


 と、今度はあっけらかんとルーカスさんが笑う。


「それより殿下の話だよ。

 さっきのは、俺の冗談にしても、昔から殿下は、今みたいに感情表現の乏しい仏頂面の子どもでさァ。

 ……そんで、なまじ勉強とかが出来て成熟してるもんだから、まァ、可愛くねぇのっ!」


 そうして、一瞬、暗くなりかけた雰囲気を明るく変えてくれたルーカスさんは。

 お兄様の真似なのか、キリっと表情を整えて真面目な顔をしたあとで。


「もう、ずっと、こんな顔してるんだよ?」


 と、私に教えてくれる。


 お兄様の子どもの頃がどんなものだったのか、私はよく知らないけど。

 ルーカスさんが言っていることは、今度は本当のことなんだろうな、と思えるくらいには、その姿が想像出来た。


 ……お兄様が笑っている姿なんて、私も、本当に見たことがないくらい想像がつかないから。


 子どもの頃からこのままというのは、それはそれで不思議な感覚はするけれど。

 それでもお兄様が、小さい頃から表情に乏しいと言われても、何となく納得出来てしまう。


「おい、勝手に人の昔話をするな」


「……本当、昔から堅物なんだよなァ。

 有力な貴族は誰だとか、近隣諸国の情勢がどういう状況なのかとかは、すんなりと答えられるくせに。

 俺が言わないと“四つ葉のクローバー”が何なのかすら知らなくて……あ、痛っ!」


 そうして、構わずお兄様の昔話を暴露するルーカスさんの頭に拳骨げんこつがひとつ落ちてきた。


 ……それを、傍目から見ていて、痛そうだなぁと思いながら、内心で大丈夫なのかと、心配になりつつ、おろおろとしていると。


「いい加減にしろ」


 と、お兄様が怒ったような、呆れたような口調でルーカスさんに言葉を投げかけた。


「折角、俺が殿下の幼い頃の話をお姫様にしてあげて、ちょっとでもお姫様の殿下に対するイメージが良くなるようにしてあげてんのに……」


 それを、恨めしそうな表情を浮かべながらルーカスさんがお兄様の方を見ていて。


 なんていうか、お互いに。


 本当に旧友にするような遠慮のない態度だという事に気付いた私は。

 どちらかというと、この2人のやり取りを微笑ましく思ってしまう。


「余計なお世話だ。そんなものを、頼んだ覚えはない」


「……あのっ、でもお兄様の子どもの頃のお話が聞けるとは思っていなかったので。

 ……貴重なお話が聞けて良かった、です」


 だから、そう言ったのは少なからず私の本心だったのだけど。


「……お前もコイツに合わせてわざわざフォローしなくていい」


 と、お兄様から言われてしまった。


 丁度、そのタイミングで、自室に着いた私は。

 話しながら歩いていたから、あまり意識していなかったけれど、お兄様の自室はとっくに過ぎていることに気付いてしまった。


 むしろ、途中で別の道に別れるのが、正解だったのに。

 話しながら歩いていたから、2人とも何も言わずに着いてきてくれたのだろう。

 ……それは、お兄様の足取りがここまで一切、迷い無く進んでいたことからも読み取れた。


「あの、お兄様、ルーカスさん、申し訳ありません。わざわざ、私の自室まで着いてきて頂いて……。ここまで、送っていただいてありがとうございました」


 道中、特に何もなかったけれど。


「俺も、これから会うならお姫様の部屋の位置は確認しておきたかったしね。丁度、良かったよ」


 お礼を言えば、にこにこした笑顔のルーカスさんがそう言ってくれる。

 そう言えば、その件も含めて何も相談できなかったなぁ、と思ったら。


「週に三回くらいでいいかな? また陛下を通して来る日は伝えるつもりだけど、ダメな日とかある?」


 と、ルーカスさんの方から聞いてくれた。


「いえ、私は基本的にはいつでも、大丈夫です。家庭教師との兼ね合いがありますので、そちらをお父様に確認していただければ嬉しいのですが」


「オッケー、分かった。確認しておくよ」


 この件に否定的だったお兄様も、今はもう決まってしまったことを受け入れているのか、ルーカスさんの方からその話題が出た一瞬は難しい顔を浮かべたけれど。

 それでも、私たちの話を止めるようなことは、しないままで。


 簡単に、それだけ話をして、途切れたタイミングでぺこりとお辞儀をして。


「それでは、失礼します」


 と、声をあげれば。

『あぁ……』と、一言だけ声を出したお兄様が私に背を向けた。

 それを見て、ルーカスさんも『じゃぁ、またね』と声をかけてくれたあと私に背を向けて歩き出す。


 そのタイミングで、ここまで、殆ど喋らずに私に着いてきてくれていたセオドアが私が開ける前に、自室のドアを開けてくれる。


 私は、遠ざかっていくお兄様とルーカスさんから完全に視線を切って。

 セオドアにお礼を言ったあと、自分の部屋に戻った。