その日、朝から珍しくお父様の呼び出しを受けて、私は手早く準備を済ませたあと、宮廷の中でもお父様が普段仕事をしている棟にある執務室に、セオドアと一緒に足を向かわせていた。
皇宮の廊下を歩き、普段、私達が生活をして過ごしている棟とは違い、こっちの棟では圧倒的に、侍女や執事などといった人達ではなく、宮廷で働いている官僚達などが多いんだけど。
最近になってお父様とほんの少しだけ和解するようなことが出来たからか、私が廊下を歩くその度に彼らの注目を浴びつつも、間を縫って、行き慣れたお父様の執務室の扉をコンコン、と、ノックをしたあとで……。
「入りなさい」とかけられた声に従って。
「お呼びでしょうか、お父様……」
と、部屋の中に入室すると、お父様のデスクの前に見知った顔が二人並んでいて、思わずびっくりしてしまった……。
「あ、の……?」
どういった用件なのか分からないままに、デスクの前の椅子に座り、対面にある扉の前に立っていた私の方を見つめてくるお父様の傍にいる、第一皇様とルーカスさんの方を一度だけ見てから、戸惑いまじりに声をあげた私に……。
「アリス、どうした? 早く此方に来なさい」
と、真面目な表情を浮かべたお父様から声がかかって、私は、お兄様とルーカスさんから強い視線を感じながらも、お父様が座っているデスクの方まで足を進めた。
「お父様、私に何か用事がありました、か?」
そうして、私の方を見てくるお兄様とルーカスさんを横目に、彼等の方を気にかけながらも、おずおずと窺うように問いかけると、相も変わらず、デスク周りには書類の束が山積みになっていながらも、その全てがきちんと整理されて置かれているだけで、誰の目から見ても几帳面だと分かるお父様が、どこか思案するような雰囲気を醸し出しながら、私を見て、難しい表情を浮かべ……。
「……あぁ……」
と、歯切れの悪い言葉を返してくる。
その姿は、まるで言いたくないことを言うような、そんな煮え切らないものであり、そんなふうに、言葉をはっきりと出さずに濁すような態度を取ってくること自体が、皇帝陛下として、いつも堂々としていて威厳を感じられるお父様には珍しく……。
何か悪いニュースでもあるのかと、私はお父様と向き合ったまま、内心でビクビクしてしまう。
「あの、おとうさま……?」
「アリス、お前は今、自分の立ち位置をどう思っている?」
「……えっと? わたしの、立ち位置、ですか?」
それから、ほんの少しの間、誰も何も喋らないという無言になった室内で、言うのをどこまでも躊躇ったような様子を見せてきたあと。
自分の顎に両手を置いて、真剣な表情に切り替わったお父様から「はぁ……」と、深いため息と共に、急に思ってもないことを聞かれて、そのあまりにも突拍子のない発言に、お父様の言葉をただ、なぞるように復唱することしか出来なかった私は、突然の問いかけに、それが『どういう意味を持つ』ものなのか、自分なりに考えてから、慎重に言葉を発した。
「あの……。
それは、皇族として、皇女としての考えでいいのでしょうか?」
「……あぁ、そうだな」
私の言葉に、お父様が煮え切らないながらも、真面目に返事を返してくれる。
未だに、お父様にどういう意図があって、ウィリアムお兄様とルーカスさんも来ている中で、今日ここに呼ばれたのか全く分からないながらも、お父様に聞かれたその言葉で、この間、ルーカスさんと会った時に『これから自分がどうしていきたいか』という決意は固めたばかりだったから、私の考えを話す絶好の機会が訪れたことだけは確かだった。
しかも、今、この場所に……。
ウィリアムお兄様もいるということは、お父様だけじゃなくてお兄様にも自分の考えを知ってもらえるチャンスだろう。
「あの……っ、それなら、私も丁度、お父様に話さなければならないな、と思っていたんです。
私はあくまで、これから先も皇女という立場から皇族の役割を果たしていければ、と思っています。
……なので、将来、お父様の跡を継いで皇帝になるであろうお兄様のお役に少しでも立てるように、これからはちゃんと勉強するつもりですし。
体調不良ということで、今まで止めてもらっていた講師を、再び、私につけていただけたら嬉しいのですが……」
この間、自分が感じたことをそのままに……、皇女としての立場から出しゃばるようなこともせず、今後も、ウィリアムお兄様の邪魔をするようなことは一切するつもりはないと思っていることと。
なるべく、自分の身の周りにいる人達のことを守りたいと思っているからこそ、その言葉は、今ここで、お父様には出さなかったものの……。
お母様と出かけた先の馬車での事故で誘拐されてしまい、お母様が殺されてしまったあの事件があってから、ロイの判断で止めてもらっていた「講師に来てもらうことを再開させてほしい」と、お願いするように、お父様に向かって声をかければ。
「……ちょっ、ちょっと待てっ!」
と、まるで、理解が追いついていないような素振りで、頭を抱えて、此方に向かって、会話を止めるように手のひらを差し出してきたお父様に、私は思わず目を瞬かせてしまった。
「……おとうさま、?」
――そういう話じゃ、なかったのだろうか?
なるべく一度で、分かりやすく発言したつもりだったのだけど……。
私の発言に、困惑したようなお父様のその姿に、私自身も戸惑ってしまう。
いきなり『自分の立ち位置についてどう思っているのか』と聞かれたことにも驚いてしまったけど、てっきり、そういう話だとばかり思っていただけに……。
違ったんだろうかと、一人、どうしていいかも分からない状態に押し黙って、椅子に座ったままのお父様の方を真っ直ぐに見つめていると。
「……ふはっ。くっ……っ、くくっ……っ」
未だ、難しい表情を浮かべたままのお父様とは対照的に、押し殺した笑いを隠しきれなくて……。
お父様のデスクの前にウィリアムお兄様と並んで立っていたルーカスさんが、此方に向かって、噴き出したように笑い始めたことで『どうしたんだろう?』と、私は困惑したまま、視線を向ける。
「……ふっ、ははっ、笑っちゃってごめんね、皇女様。俺達がいる場所で、こうして律儀にも、俺と話したことを、ちゃんと嘘偽りなく陛下に言ってくれるとは、まさか、思ってもなかったからさぁ……」
笑ったことで、目尻に少量、浮かんできたその涙を指先で拭うようにして、私に向かってそう言ってくるルーカスさんに、私のことを心配してくれた様子のセオドアの冷たくて厳しい視線が突き刺さったのと同時に……。
「……ルーカス。まさかとは思うが、これは、お前の入れ知恵か?」
と、何故か、ルーカスさんの横で、静かに怒気を含めた声色で……、お兄様が、ルーカスさんに向かって、問いかけるように声を出してきたのが聞こえてきた。
「人聞きの悪いことを言わないでよ、殿下。
皇女様と偶然、出先で遭遇するような機会があってさァ、その時、俺とちょっとだけ話したんだよね? 大体、俺が皇女様を
ちゃんと、全部、皇女様の意思だよ」
――そうだよね?
そうして、お兄様に問いかけられたことに対しても、どこ吹く風で、此方に向かって、ウインクをするように、そう言ってくるルーカスさんに。
一体、どうしてお兄様が、突然、怒りだしたのかも、どうして、お父様が改めて私に自分の立ち位置について聞いてきたのかも、その意図も含めて……。
今、自分の目の前で遣り取りをしているルーカスさんとお兄様の会話の流れが全く読めておらず、オロオロしてしまった私は、ただそれに、正直に、こくりと頷くことしか出来なかったのだけど。
「巫山戯るな。
……お前、今日、この状況をつくるまで、一体、どこまで計算して行動してきているんだ?」
私がルーカスさんに同意を求められて頷いたあとも、何故か、お兄様は怒りが収まらない様子で眉を顰めたままで、ルーカスさんに対しての追及の手を全く緩めることもなく、怒ったような口調のまま、ルーカスさんに厳しい言葉をかけてくる。
「……信用ないなァっ、本当に。
この前、俺がお姫様に出会ったのは偶然だよ。
その時に、この話をしたのは、まぁ、今日のことも見据えていた部分はあるかもだけど」
その言葉を聞いてもなお、お兄様の方を真っ直ぐに見つめながら、そんなふうに声をあげるルーカスさんに対して、未だ、怒り心頭の様子の兄は、それでも、お父様の手前、それ以上、怒りをぶつけるようなことは出来ないと思ったのか、押し黙ってしまった。
「……まさか、エヴァンズ家の子供に、一杯食わされるとはなっ。
だが、全てのことを決めるのは、アリスだ。
その意志を無下には出来ないし、そこだけは、履き違えるなよ?」
「勿論です、陛下……。
皇帝陛下の名の下に、今、この場では嘘偽りなど、一切、ついていないことをここに証明します」
それから、大事な契約とかでしか出ることがない正式な言葉でお父様にそう言って、にこり、と此方を見て、笑顔を向けてくるルーカスさんに……。
「……??」
未だ、話の流れの大半も読めていない私は、ただひたすらに困惑することしか出来ない。
先ほど、お父様から言われたことを推測するに……。
私がこれから皇女として『どういうふうにしていくつもりなのか』とか、皇族としての品位について聞かれていたのではなかったのだろうか、と思ってしまうんだけど。
お兄様はまだしも、そこに、どうして、ルーカスさんが関わってくるのかも分かっていない状態で、おろおろしながら、成り行きを見守ることしか出来ない私に、お父様が一度、わざとらしく、自分に注目を集めさせるため、コホンと咳払いをするのが見えた。
……そのあとで、私の方へと真っ直ぐに視線を向けたお父様の口から……。
「そこまでお前が考えているとは思わなかった……。
先ほどの皇女としてのお前の言葉は、ちゃんと後で話し合うとして、一先ずは、此方の用事から済ませてしまおう」
と、言われてから……。
「お前への、婚約の申し込みだ、アリス。
しっかりと吟味した上で、どうするのかは、お前自身が決めればいい」
と、次いで、お父様から、私へと放たれたその一言は……。
――特大の爆弾だった。