翌日、姫さんの部屋の近くにあった部屋に向かった俺は、アルフレッドのために皇帝が家具も一式揃えた状態で、わざわざ用意してくれたという、まさに、特別待遇のこの部屋で。
万が一にも、二人でこうして会っていることが、誰にも気づかれることのないようにと、細心の注意を払いながら、アルフレッドと合流していた。
「……首尾はどうだった?」
「残念ながら空振りだ。今回も、特に怪しい動きは見せなかった」
ちらりと、俺の方を一瞥したあとで、普段通りの会話をするかのように、声を出してきたアルフレッドを見ながら、俺は「そうか……」と、小さく声を溢して、アルフレッドに近寄っていく。
――何もなかった分には、問題がないから、一先ずは、内心で安堵する。
「何もないなら、それに越したことはない」
「うむ。
アリスがいない間も自分に出来る仕事はこなしているし、見た目上は普通の侍女だな。
……昨日一日のタイムスケジュールについては、メモをしているが、一応、確認しておくか?」
「……あぁ、助かる」
そうして、俺が近寄ったことで、この部屋の中の机の引き出しを開け、手のひらよりも小さいかもしれない一枚のメモ用紙を取り出してきたアルフレッドから、それを受け取った俺は……。
ザッと流し読みしたあとで、今の時季は使われていない部屋の中にあった暖炉にそれを投げ入れて、火打ち石で薪に火をつけ、紙ごと燃やし、完全に書かれている文字が見えなくなったのを確認してから、暖炉の火を消して、再度、アルフレッドの方に視線を向けた。
「いつも悪いな。お前に諜報みたいな役割を回して……」
「気にするな。
僕自身、本来、補助魔法の方が得意分野でもあるし、表立っての戦闘よりも、こういった小回りの効くようなことをする方が、僕の性にも合っているからな。
適材適所というやつだし、お互い様だ。
……だが、僕から見ても、怪しいと思うようなことはあれど、ぱっと見、本当に、ただの侍女にしか見えないぞ?」
そうして、俺が、謝ったことについて、アルフレッドが「こういう役回りの方が自分に向いている」と言ってくれるのを聞きながらも、俺は、アルフレッドに聞かれた質問に、真剣な表情を向けて、こくりと頷き返した。
「嗚呼、ただの侍女なのは間違いねぇだろうな。
動きが完全に非戦闘員のソレだ。まるで、動きがなっちゃいねぇから、こういうことすんのは、もしかすると、本当に初めてかもな……」
俺の言葉に、俺と同様、どこまでも難しい表情を浮かべたアルフレッドが……。
「……筋肉の動き、だったか?」
と、聞いてきたことに、返すように……。
「あぁ、姫さんと接する時、身体が不自然に、いつも強ばってんだよ。あれじゃあ、
と、はっきりと告げれば……。
「……僕が言うのもあれだが、お前の眼も、本当に大概だな。まぁ、お前の場合は、その眼だけじゃなくて、経験によるものも大きいのであろうが」
と、ボスンと、部屋の中にあったベッドの上に座って、俺を真っ直ぐに見つめてきながら、やれやれ、と、どこか、呆れたような仕草で、アルフレッドが此方に向かって声をかけてくる。
(姫さんの下に、皇后からの推薦で新しく入ってきた、侍女……)
元々、あの侍女は俺達とは違って、姫さんに心から仕えている人間ではなく……。
わざわざ、皇帝が此方に寄越してきたものだったから、最初から、俺はあの侍女に対して警戒心を持っていた。
ただ、最近の皇帝を見ていると、姫さんに対して、遅まきながらも歩み寄ろうとしている感じなのは俺にも分かる。
……それが、姫さんが能力を持ったからなのか、それとも、アルフレッドっていう強力なカードが姫さんの傍つくようになったから興味を持つようになったのかまでは、俺にも分からないけど。
――侍女さんの話じゃ、姫さんは生まれた頃から殆ど、両親からは放置されて、過ごしてきたらしい。
皇帝も、姫さん側から会いたいと願わなければ、自分からは会いにさえ来なくて……。
要望があってからも、直ぐに会ってくれる訳じゃなく、仕事で忙しいということを口実に、二、三日、時間を要さなければ、その面会も叶わなかったとのことで、それも、姫さんのところに来てくれる訳じゃなくて、必ず姫さん側から、皇帝の執務室に行かなければいけなかったみたいだし。
――道理で、俺と出会ってからの姫さんが、業務的なことを告げに行く時以外で、殆ど、皇帝に会いに行こうともしない訳だ。
それでも、皇后である姫さんの母親が、あんな事件で殺されてしまうまでは、姫さん自身が『皇帝からの愛情』を求めて、宝石などをお願いするという理由で、会いたいと面会の希望を出したりもしていたみたいだけど。
それさえしなくなってしまったということは、恐らくもう、姫さん自身が皇帝に対して何の期待もしなくなってしまったということに他ならないだろう。
(誰も味方ではなく、独りぼっちで、寂しい思いもずっとしてきたのだ)
今まで、交代制だったことで、ずっとは見てあげられなかったという侍女さんから言われた内容を聞けば、侍女さん以外の侍女達や、俺の前任の騎士も、マナー講師も、姫さんに対して暴言を吐いたりするようなことは日常茶飯事だったという。
一度、別の侍女が姫さんに対して、躾のためにと暴力を振るっているのを目撃してから、侍女さんもかなり、そのことには敏感になって気をつけていたらしいから、姫さんに対する暴力は、侍女さんが傍にいる時には少なくとも誰もしていなかったと思うとは教えてくれたものの。
――そんなもので、許される訳がない。
侍女さん自身、専属の侍女として『アリス様のお側にずっと付いてはあげられなかったので』と深い後悔を滲ませていて。
何度も上へと進言したけれど『姫さんの我が儘や癇癪』を理由に、侍女さんが幾ら一人で頑張ってくれても、大多数の意見である姫さんの周りにいた侍女や騎士達の言うことを信じて、侍女長は一度も取り合ってくれなかったと言っていた。
その話を聞けば、姫さんの周辺が全て、あれだけ杜撰な管理下におかれていたのにも頷ける。
だが……、姫さんの我が儘や癇癪だって、姫さんのことを下に見て、貶すことしかしてこない攻撃的な大人達から、自分の身を守るための唯一の手段だったのだ、と。
抗う術も身につけていない、幼い姫さんが、周りに対抗するためには『それしか方法がなかったのだと思う』と……。
侍女さんから、その話を聞いた時、俺が来る前の姫さんの惨状については、憤りしか感じなくて、思わず、目の前が怒りで真っ赤に染まってしまいそうだった。
そうして、目の前で『母親である皇后が殺されてしまった瞬間』を見て、全てを諦めてしまったのではないかと。
侍女さんの言っていることには、俺自身も、納得のいく話でもあって。
初めて、姫さんに出会った時、まだ十歳だというのに、それを一切、感じさせない雰囲気で、姫さんがどこまでも達観している様子だったこともそうだし。
物事を斜に構えている訳でも、子供らしく泣いたりする訳でもなく、自分の状況をただただ理解して、ありのままを受け入れて『情など欠片も持たなくていいのです。誰もやりたがらない仕事ですが、打算で就いて見る気はありませんか?』と、俺にそう提案してきた、姫さんのことを思えば……。
どうしても、俺は皇帝に対して、『今さら、何のつもりで接してきてるんだ?』という思いが拭いきれない。
姫さんの祖父でもある公爵が『あの男は合理的だ』と言っていたように、君主としては確かに優秀なのかもしれないが、そんなもので、姫さんが今まで傷つけられてきた事実は消えはしないんだから。
(それでも最近になって、姫さんの方へ向く、その瞳が変わってきているのは、悔しいが良いことには違いないだろう)
皇帝が姫さんのことを認めるだけで、世間の流れが一気に姫さんにとっては良い方向に傾いたのを、俺自身がこうして、姫さんの傍にいることで、体感している。
――だからこそ。
最近、姫さんに歩みよろうとしている皇帝が送ってきた侍女だから……。
当初の俺の予想とは違い、監視の意味合いが含まれていた訳じゃないのなら、下手なことはしないだろうと思っていたが。
どうにも、その動きがぎこちなく……。
まるで、何かを仕出かすために姫さんの『侍女についている』とでも言わんばかりの態度が、あまりにも不自然すぎた。
「一人で、動いていると思うか?」
俺の問いかけに、ふるりと首を横に振った上で、アルフレッドがそれを否定する。
「お前も、そうは思わぬから、わざわざアリスがいない間、僕をあの侍女の内情を探るためにつけたのであろう?」
「……あぁ」
――そうして、返って来た言葉に、こいつも同じことを懸念していて、心底、ホッとした。
普段から、姫さんの部屋に全員が集まることが多いということもあって、これだけ一緒に過ごしているというのに、アルフレッドと二人きりになれる時間はそんなにも多くなく。
要点だけを絞って『姫さんがいない間、出来るだけ、あの侍女の動向を探っておいてほしい』と、短く伝えておいた俺の説明だけで、ここまで意思疎通を図ってくれるのは本当に助かる。
今回だけじゃなくて、姫さんがエヴァンズ家での御茶会に行った時も、アルフレッドはあの侍女の動向を探ってくれていた。
外に行く時も、侍女さんが姫さんに同行しない時は、基本あの侍女も、侍女さんについて仕事をこなしていて、『二人』で動くのは分かっていたことだから。
エヴァンズ家のあの男が、姫さんを連れ回して、ジェルメールに行った時は、アルフレッドも俺達の方についてきていたが……。
(まぁ、あの時は、第一皇子もついてきていたから、出来るだけ、二人とも、姫さんの傍にいた方が良かったしな)
「だが、そうなってくると、その裏にいるであろう犯人は、おおよそ絞られてくるだろうな?」
「あぁ……」
どこまでも険しい表情を浮かべたまま、ぽつりと吐き出されたアルフレッドの言葉に、俺も同意する。
最初はあの侍女も、世間一般の人間と同じように、姫さんが『鮮やかな紅色の髪』を持っているってことで侮蔑していて、嫌がらせみたいなことをするつもりなのかと思ったが。
……どうも、あの動きは『人に平気で嫌がらせが出来るような』そんなずる賢い人間がするような動きでもない。
(誰かに、命令……。もしくは、脅されて、必要に迫られている)
……そう、考えた方がしっくり来る。
一体、あの侍女が、姫さんに対して何をしてくるつもりなのかまでは、読めねぇが……。
後ろに『誰かいる』と考えたら、まだ、その行動にも納得がいく。
そうなったら、怪しい人間は、姫さんにあの侍女をつけることを推薦してきた、現皇后か……。
もしくは現皇后に、姫さんの傍に『あの侍女』をつけることを進言してきたような人間。
――つまり、皇后側に限りなく近しい人物、って、ことになる。
「……俺の勘が外れていればいいと、ここまで思ったのは初めてかもしれねぇ」
「僕もだ。……もしも、そうだった場合、その事実はあまりにも、アリスが背負うには重すぎる」
ただでさえ、皇族の中での姫さんの立ち位置は、今にも崩れてしまいそうなほどにいつだって不安定な崖の上に立っているようなものなんだ。
敵意をむき出しにしてくる第二皇子に、姫さんのことを助けてるのか、そうじゃないのか全く読めない第一皇子。
姫さんと他の皇族との『家族としての確執』があるってことは分かってはいたが、このまま、あの侍女が動くこともなく。
何事も起こらなければ、別に、何の問題もないんだろうが……。
どんなことが起こっても、いつでも対応出来るように、その覚悟だけはしっかりとしておいた方がいいだろう。
今の今まで静かにしていただけで、姫さんの義理の母親が敵であるというその可能性を、否定することなんて出来ない。
そして、どうやったってその事実を知ってしまったなら、今まで以上に深い傷を負い、ショックを受けてしまうのが避けられないと分かっているからこそ。
――姫さんに、そのことを伝えられないと感じてしまう俺は……。
最悪、起こりうる可能性が、万が一にも、姫さんの目と耳に入ってしまうことがないように、何か事が起きたとしても、俺達だけで対処することが出来ればいいと思ってしまう。
「……とりあえず。今のところ、怪しい人間との接触はないのなら安心した」
今はただ、警戒することしか出来ないだけなのが、もどかしいが。
これ以上、どうすることもできないのも、また事実。
ただでさえ、第一皇子との確執を狙って、姫さんが君主になる方が相応しいとか言ってくる人間が、これから先、出てくるかもしれないっていうのに……。
これ以上、姫さんの負担になるようなことは起きて欲しくないというのが、俺の本音だった。