ファリエは困惑していた。
巡回の最中に休憩がてらの買い食いを提案され、「いいです」とも「嫌です」とも答える暇すら貰えず、あれよあれよという間に精肉店の横に設置されたベンチに座らされてしまったのだ。
たしかに彼女は、人間の料理を食べること自体はほぼ問題がなく、むしろ好きなぐらいだ。またコロッケ自体も、かなり好きな料理ではある。
(でも、いいのかな、こんなことしちゃって……)
自分が他の先輩や同僚と見回りをする時でも、途中の売店で飲み物を買うぐらいはする。特に夏場は汗もかくため、吸血鬼と言えども水分補給が必要不可欠なのだ。しかし、がっつりお惣菜を食べることなどまずない。
意識がどうしても業務中という事実に引っ張られるため、いけないことをしている気分に陥り、なんとも落ち着かない。つい木製の簡素なベンチの上で、もそもそとお尻を動かす。他の団員に見つからないだろうか、と視線も怯えたように左右へ動いていた。
すぐそばで部下が抱いている、小心者過ぎるそんな戸惑いを知ってか知らずか。ティーゲルは馴染みの店主と談笑しながらコロッケを三つと、ついでにソーダ水も二つ注文していた。
コロッケの総数と人数が合わないが、おそらく二つは彼が食べるのだと思われた。ぽっちゃり体型でひげ剃り跡の濃い店主も、特段訝しんでいる様子がないため、普段からこんな具合なのだろう。
ファリエは店主と談笑する、彼の動きに合わせてかすかに揺れる癖の強い赤毛をぼんやり見つめていた。
鮮やかな色の髪は相変わらず長く、一つに束ねられている。どうやらまだ、美容室に行く決心がついていないようだ。一度足が遠のくと、再び出向くのが
――と、そこでティーゲルがこちらを振り返ろうとしたため、慌てて視線を足元に落とす。もぞもぞと動いていたお尻も、ぴたりと静止。
彼はそのまま、ファリエの前まで戻って来た。
「ファリエ嬢、待たせてすまなかった。出来立てらしいから、気を付けて食べてくれ」
ベンチの端にちんまり座り、日差しを避けるファリエへ歯を見せて笑ったティーゲルが、湯気をまとったコロッケを一つ差し出す。持ち歩きしやすいよう、コロッケの下半分は薄茶色の包み紙に覆われている。
ちなみに残り二つは、彼の反対の手に収まっていた。やはり二つ食べるらしい。
「あ、ありがとう、ございます……でも、いいんですか? 巡回中にご飯なんて、食べちゃって」
コロッケを受け取っても問題ないのか、と中途半端に手を差し出したまま、恐々と上目遣いに伺う。ティーゲルは笑顔のまま、一つ肩をすくめて横に座った。
「君の上司は俺だから、君に関して言えばまず誰にも叱られない。それに俺も、ここのコロッケは現在の団長に教えてもらったんだ。巡回しながらの食べ歩きにも丁度いい、と」
どうやら律儀に飲み物だけで我慢している団員の方が、少数派であるらしい。
自警団は体力勝負の過酷な仕事なので、それもそうかもしれない。
「で、でもわたし、人間の食事でほとんど栄養取れませんよ? せっかくおごって貰っちゃったのに、完全に趣味で食べちゃいますよ? ほんとにいいんですか? 後で『あー、あいつにおごるんじゃなかった』って後悔しません?」
なおも不安でつい、まくし立てるように念を押せば、今度は大口を開けて大笑いされた。突然の大爆笑に、ファリエと精肉店店主の体がビクリと跳ねた。
「君は心配性だな! 俺たちだって飯は半分道楽みたいなものなんだから、そんなこと気にしなくていい」
「あ、そうなんですね……」
もう少し厳かな気持ちで食材に向き合っているのかと思いきや、料理の美味しさに日々の楽しさや生きがいを見出す側面もあるという。その辺りはファリエの感覚と、あまり変わらないらしい。
それならいいか、とファリエも観念して素直におごられよう、と覚悟を決めた。ティーゲルが差し出したままのコロッケを、改めて
「ありがとうございます……えっと、いただきます」
小さな声でそう言って、じっと持っているのも少し辛いぐらいに熱いコロッケと向き合う。
「どうぞ、召し上がれ」
緩く目を細めたティーゲルもそう答え、一つ目のコロッケにかぶりついた。気持ちの良い、豪快な食いつきっぷりである。
ファリエは決して、買い食いという行為自体をよしとしないような、深層のご令嬢ではない。だが一方で、日頃お世話になっている上司の隣で大口を開けるのもためらわれたため、小さく口を開けてコロッケの端にかじりついた。
ホクホクと柔らかなジャガイモの中には、スパイスの効いたひき肉の旨みや脂から迸る甘み、そして原型がなくなるまでじっくり炒めた玉ねぎの風味が、たっぷりと練り込まれていた。
また、どうやらラードを用いて揚げられているらしく、キツネ色の衣から湯気と一緒に漂って来るジャンキーな香りすら、ファリエの心を鷲掴みにする。
つまりは、とても美味しいコロッケだったのだ。
今までこの店の前を、巡回のたびにただ素通りしていた自分をビンタしてやりたい衝動に駆られる。同時にとんでもない名店を教えてくれたティーゲルに感謝を言わねば――と、脳の片隅では考えているものの。
残念ながら脳の大半は想像以上に美味しいコロッケに持って行かれていたため、ファリエは食べることに夢中となっていた。
途中で何度か小さなうなり声を喉の奥からこぼし、ちまちまと食べ続ける彼女の姿を、隣で一つ目を食べ終えたティーゲルが、案外じっくり観察していた。
ついでに二人分のソーダ水を持ってきてくれた店主も、初めて見る吸血鬼のお客さんの反応が気になるらしく、そわそわと不安そうに彼女を見守っている。
しかし店主の不安は、幸いにして杞憂であった。
瑠璃色の
店主も背中を丸めて安堵しつつ、新しいお客さんの無邪気な姿にほんのり頬を赤らめている。
男二人からの熱い眼差しに気付くこともなく、ファリエは両手で持ったコロッケを凝視。次いでうっとり呟いた。
「隊長。ここのコロッケ、とっても美味しいです」
「それはよかった」
大満足であるとの言質も取り、彼女にもソーダ水を渡しながらティーゲルもにんまり。
「味の好みも、俺たちとあまり変わらないのだろうか?」
コロッケは美味しいが口内の水分もしっかり持って行かれていたので、リンゴ味のソーダ水で潤いを取り戻してからファリエはうなずいた。
「はい。血液を美味しいと感じる以外は、人間の方と変わらないと聞きます」
そしてふにゃり、とはにかむ。
「実はわたし、人間の食文化に憧れて故郷を出たんです」
「ほう?」
小さく相槌を打ったティーゲルへ簡単に、家族旅行で人間の街を訪れた際に料理に感動したこと、魔術は得意だったのでそれを活かせる就職先を探した経緯を伝えた。
気の弱い性格に似合わぬ型破りな就職活動ぶりに、ティーゲルの猫目が丸く見開かれる。
「君は意外と行動派なんだな。しかし魔術師として働くなら、ここよりもっと待遇のいい就職先もあったのでは?」
ペロリと二つ目のコロッケも平らげたティーゲルが、コロッケの包み紙を丸めて首をひねった。
たしかに自警団は決して、ホワイトな就職先とは言えないだろう。
またファリエは魔術師として有能でありながらも、運動能力に大いなる問題を抱えている。自警団での業務を行う上で、実際に色々と苦労もしている。運動能力を必要としない職場も、魔術師ならばもっとあるだろうに。
ようやく食べ終わったコロッケの包み紙を丁寧に折りたたみ、ファリエは微苦笑。
「そういう待遇のいい就職先だと、吸血鬼の方もやっぱり多いので……なので、あまり、食事面で期待できないなーって……」
己で言っていて、食いしん坊ぶりに顔が熱くなった。羞恥に背を丸めるも、ティーゲルは興味深そうに彼女へ身を乗り出した。ただ、琥珀色の目はどこか悪戯っぽい。
「ちなみに現在の食事環境はいかがだろうか?」
「……団内の食堂もメニューが豊富で、周りに美味しいご飯屋さんもたくさんあって、最高です。大満足です」
今にも火を噴きそうなぐらい顔は真っ赤のまま、半ばやけくそ気味にそう評する。
「大満足か、それはよかった!」
するとやはり、ティーゲルはなんとも楽しそうに笑った。
自分でも馬鹿な志望動機であることは重々承知なので、「自警団を馬鹿にするな」と怒られなかっただけよしとしよう。
「ともあれ、ここのコロッケも口に合ってよかったよ! また後で、他のオススメの店も紹介しよう」
「あ、ありがとう、ございます」
笑い過ぎて目尻にうっすら溜まった涙を指で拭い、ティーゲルはそう言ってくれた。へどもどと、ファリエも素直に頭を下げる。
そうして二人でベンチから立ち上がり、近くのゴミ箱へコロッケの包み紙を捨て、店主に空になったグラスも返却した。
そのまま巡回を再開――と思ったのだが、歩き出しかけたティーゲルの足がすぐに止まった。次いでちろり、と珍しくためらいがちにファリエを振り返った。
「ファリエ嬢。すまないが今日の退勤前に、あれを頼んでもいいだろうか? また、眠りが浅くなって来ているんだ」
“あれ”とはもちろん、吸血のことである。
彼の言葉にぎくり、とファリエの体が強張った。たしかに最後に吸血したのが四日前なので、そろそろ言われるだろうな、とは思っていた。
「……はい。いいですよ、もちろん」
返答までにかなり間が空いたものの、言葉の上では快諾する。補佐官を任される際、彼の睡眠不足の解決も頼まれているのだから、受け入れるほかない。
ただ顔と言わず全身から不平不満を放出していたので、またティーゲルに笑われた。
「全くよさそうじゃないな!」
実際、全くよくなかったので仕方がない。ファリエは運動と並んで、腹芸やポーカーフェイスが大の苦手なのだ。