子どもたちとぶつかった相手が屈強なティーゲルであれば、跳ね飛ばされたのは子どもたちの方だっただろう。
だが相手は、同僚のみならず故郷の同胞からも「運動能力が全部、魔力に持っていかれたに違いない」と評される程に、鈍くささでは右に出る者のいないファリエだ。
子どもたちのぶつかった衝撃に耐えられるわけもなく、思い切り前のめりにバランスを崩した。
「ひゃっ」
しかしティーゲルの尻に頭突きをするわけにはいかない、と無理に体を反らした結果、かえって後ろへ重心が傾いてしまった。その拍子に、彼女たち吸血鬼の生命線である日傘も、手からすっぽ抜けてしまった。
だがブリッジするように思い切り体をのけぞらせた、ファリエの後頭部が石畳に激突するよりもはるかに早く、振り向いたティーゲルが彼女の背中へ左腕を回した。同時に右手で、宙に放り出された日傘を捕まえる。
「ファリエ嬢、大丈夫か?」
ファリエの頭上に日傘をかざしながら、心配そうに眉を寄せる姿を至近距離で直視した。その瞬間、ただでさえ子どもたちの体当たりによって混乱していた頭が、真っ白に漂白されてしまった。
(どうしよう……役得かも)
真っ白すぎて、そんなどうでもいいことを考えてしまう。しかしすぐさまハッと我に返って、猛烈な気恥ずかしさと申し訳なさに襲われた。慌てて両足で踏ん張り直して、背筋も伸ばす。
「すっ、すみまっ、すみません! ぼぼぼっ、ぼんやりしてました!」
「いや、今のは前方不注意で飛び出した彼らにも問題はある。もちろん、君の体幹も……うん。少し残念かもしれないが」
「あ、はい……」
普通に筋力不足を指摘され、日傘も受け取りつつうなだれた。筋トレの量を、増やすべきかもしれない。
ファリエに体当たりした子どもたちは、まさか目の前に妙齢の女性がいて、危うく彼女に怪我をさせるところだった事実が予想外過ぎたようだ。一様に強張った表情のまま、所在なさげに立ちすくんでいた。
上背のあるティーゲルは身をかがめ、彼らに視線を合わせる。
「遊ぶことは決して悪いことではないが、市街地は人の数も多い。もちろん車だっていっぱい走ってる。必ず、周りを見るようにしなさい。下手をすればぶつかった相手や、あるいは君たち自身が大怪我をしてしまうこともある」
「あ……はい、ごめんなさい……」
真顔の大人からの静かなお叱りを受け、先ほどまで頬を紅潮させて汗だくではしゃいでいた彼らも、揃ってしょんぼりと視線を下げる。
しかしティーゲルは根がお人好しで、子どもとお年寄りからの受けがいい性格である。
すぐにニコリと人好きのする笑顔を浮かべ、腰を上げつつファリエにぶつかった少年の背中を優しく一つ叩いた。
「さ、お説教はこれでおしまいだから、また遊んできなさい」
「あ……」
「ただし、周りには気を付けるように」
「はいっ」
力強くうなずいた少年は、駆け出す前にファリエにも顔を向け、周囲の友人へ目くばせをすると揃って頭を下げた。
「お姉さん、ごめんなさい!」
「いえ、わたしもぼんやりしてましたから。お互い転ばなくて、よかったです」
ファリエも首を振り、そう言って笑顔を返す。ホッとした子ども達は二人へ手を振り、今度は左右を確かめながら道を横切り、向かいの路地に消えていった。
彼らへ手を振り返して見送った後、ファリエは改めてティーゲルへ頭を下げた。
「あのっ、ほんとにすみませんでした! 傘まで拾ってもらって、すみません!」
「君も言っていたが、怪我人は出なかったんだ。気にしなくていい」
快活に笑ったティーゲルだが、すぐに小首をかしげた。視線は彼女が握る、日傘の柄に注がれている。
「しかし、巡回中も日傘で常時片手が塞がれているのは、不便ではないか? ひょっとして夜勤の方が、君の負担も少ないのでは?」
ぱちくり、とファリエは目をまたたく。
まさか今の体幹脆弱ハプニングで、勤務体制の見直しを検討されるとは思ってもみなかった。人の好い彼らしい気付き、とも言えるだろうが。
だが彼女に、日勤業務への拒否感はない。ゆるゆると首を振る。
「いえ、日傘の携帯は慣れてますし、夜勤ばかりでは皆さんとお会いできる時間も減りますので」
夜勤は各部隊で持ち回りとなっているが、実際に出勤する人数は日勤より少ない。何故なら夜間の事案発生頻度が、日中と比べて各段に下がるためだ。
せいぜい道のど真ん中で寝ている酔っ払いの回収や、酔っぱらい同士の小競り合いの仲裁程度である。酔っ払いの少ない、世間一般の給料日前ともなれば輪をかけて暇なため、その時期の夜勤人気はむしろ高かったりする。
「それに、人出の多い街の様子を見て回るのも好きですし……あ、あとですね! 最近は日焼け止めも優秀なので、ちょっとでしたらお日様を浴びても大丈夫です! いっぱい浴びても、肌が赤く火傷しちゃうぐらいですから!」
最後は力いっぱいにファリエがそう続ければ、ティーゲルは短く息を吐いた。少々、呆れているように見える。
「俺はとても『火傷ぐらい』とは言えない。必ず、日傘は手放さないように」
「あ、はい」
「だが日勤も巡回も、君の負担になっていないなら、よかった」
「はいっ」
微笑んでくれたティーゲルに笑い返し、ファリエは日傘の柄を指さした。
「それに日傘は、大事な護身具でもあるんです。ほら、ここ」
「そういえば以前、そんなことを言っていたな。それが魔石……か?」
ティーゲルは木製の柄にはめ込まれた白い半透明の石と、石を囲むように彫られた術式をしげしげと観察。
ファリエもこくり、とうなずいた。次いで照れくさそうに、銀色の髪を指に絡める。
「わたし――は特にアレなのですが、吸血鬼はみんな運動が得意でないので。いざという時、日傘はいい武器にもなるんです」
「なるほど、抜かりのなさはさすがだな」
腕を組んで感心したようにうなるティーゲルに、日傘に電撃の術式が施されていることも説明しつつ、巡回を再開した。
ニーマ市は気性の荒い住民こそ多いものの、治安自体はそれなりにいい。夜間でも夕飯時ぐらいまでならば、女性が一人歩き出来る程度には。
今日も穏やかに住民たちから挨拶されつつ、巡回業務は続いていく。
そうこうしている内に、二人は大通りから道幅の狭くなった脇道へと入り込んだ。
すぐ近くに、小さな精肉店が見えた。肉以外にも自家製惣菜を取り扱っており、軒先に置かれたベンチで食べることも可能な店舗である。
ファリエも巡回で何度か前を通ったことはある店だが、気になりつつもまだ利用できていなかった。
その店を視界に捉えたティーゲルが、あ、と短く呟いた。
「たしかファリエ嬢は、人間の料理を食べることも出来るんだよな?」
「え? ええ、そうですね。食べるのは問題ないです」
問いの意味が分からず、ファリエはためらい混じりにうなずく。
彼女の答えににっかりと、ティーゲルは振り返って笑った。
「それなら休憩がてら、食べていかないか? 巡回中によく、ここのコロッケを食べるんだ」
彼が指さすのは精肉店のショーケース。肉類とは分けて、揚げたてのコロッケやミンチカツが売られていた。食欲をそそる香りが、ここにも流れてきている。