もちろんファリエは、噛んだ人間をお馬鹿にする未知の病原菌など持っていない。
またティーゲルのおツムの出来についても、幸か不幸か吸血前とは一切変わっていない。
ただ彼にも彼で、吸血を切望するかなり切羽詰まった事情があったのだ。
ティーゲルは二ヶ月ほど前まで、ファリエと同じ第三部隊の平団員であった。彼は武官、ファリエは魔術師ということで、細かな職種こそ異なるものの、階級自体は同じだった。
にもかかわらず突然、第三部隊の隊長に任命されたのだ。
前隊長がある日突然、
「これからは妻と一緒に、大道芸の道を極めてみたい。それが私の昔からの夢であり、セカンドライフなんだ」
などと言いだして、かなり早めの退職そして楽隠居を決めたしわ寄せによる、予期せぬ出世だった。
なおそんな彼の現在はというと、大道芸を極めるべく、夫人と共にサーカスにて修行中らしい。御年四十三歳の、とんだオールドルーキーだ。サーカス側もよく受け入れてくれたものである。
本来であれば、当時から副隊長の職に就いていたシリルという男性が、そのまま隊長へ昇格するのが筋となる。
しかし彼はかなりアクの強い性格のため、団長から昇任を打診された際に
「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、私は部下を統率出来るような器ではございません。そういったカリスマ性のある隊長を密かに支える、日陰の二番手辺りが関の山でありますので」
と、一聴すると大層謙虚な理由で断ったらしい。
ただ表情には露骨に「面倒くさい、絶対やるか。むしろお前がやれ」と書いてあったそうだ。
ティーゲルは平団員ではあったものの、武官としては優秀で、なおかつ同僚や後輩からも慕われていた。
また上記の経緯を団長から聞いた際にも、彼の気苦労をねぎらう人の好さも持ち合わせている。加えて、シリルと違って逐一上に噛みつくような問題児でもないし、大道芸人になりたいという妙な野望も抱いていない。
そのため彼が、急遽隊長に抜擢されたのだ。ティーゲルはTPOに配慮せず反抗する性格でもないので、現場に出る機会が減ることに未練はあったものの、粛々とその人事を受け入れた。
どうせ誰かが、隊長になる必要はあるのだから、と。
なおその異例人事の原因となったシリルはというと、
「扱いやすい貴方が上司になってくださって、実に願ったり叶ったりです」
と諸手を上げて晴れ晴れと、ティーゲルを歓迎してくれた。なんとも複雑である。
上層部の期待通り、ティーゲルはリーダーシップみなぎる若き隊長となった。幸いにして引き続き、下からも好かれている。
だが人間、得手不得手があって当然であり。
ティーゲルは、自分で思っているほど頭の回転が悪いわけではないものの、勉強や事務作業の類が非常に苦手であった。
そもそも長時間じっと座っていること自体が好きでないため、管理職にとって避けられない苦行もとい、定例会議もかなり辛いのだ。
現場叩き上げの彼にとっては
しかし一度引き受けた以上、隊長の役目を見事に果たしたいという責任感や向上心も人並みにある。
そんな
寝付くまでに平気で一時間以上かかり、いざ入眠できても眠りが浅く、何度も目が覚めてしまう。
おまけに、睡眠中は度々悪夢にも襲われていた。
会議の時間を勘違いして会場入りし、他部隊の面々から白い目で見られるという内容や、作成した重要書類にうっかりコーヒーをこぼしてしまい、関係各所から叱られるといった内容が殆どだった。つまりは寝ても覚めても、隊長職のストレスから離れられずにいる。
副隊長のシリルは、慣れぬ仕事に戸惑うティーゲルに案外協力的だった。おそらく面倒くさい役職を押し付けたという負い目も、わずかだがあるのだろう。鬼畜の目にも涙だ。
しかし隊長付きの事務員である補佐官は、恐ろしく非協力的だった。加えて、仕事熱心でもなかった。いや、どちらかというと、手を抜くことに心血を注ぐタイプかと思われる。
元々が手抜き上等という残念な気質であることに加えて、補佐官はどうやらティーゲルのことを舐めている節もあった。
大道芸人への夢を捨てきれなかった、という致命傷こそあったものの、前隊長は上級学院出のいわゆる高学歴エリート様でいらっしゃった。また補佐官自身も、同じく上級学院を優秀な成績で卒業しているらしい。
一方のティーゲルは、パッとしない成績で義務教育を終えた後、職業訓練校を経て早々に就職した、中の下な学力の持ち主である。そして実家も平々凡々で特筆すべき裕福さなどもない、いわゆる一般庶民家庭だ。仲のいい自慢の家族ではあるが。
学歴並びに学力に重きを置いているらしい補佐官は、新しい上司のなんとも冴えない経歴が気に食わなかったらしい。徹底してティーゲルのサポートに手を抜き、時には無視することもあった。
彼が書類のお
彼は一ヶ月間近くも依頼書を
「あーそうそう、すみません。こちら、お渡しするのを忘れていました」
と、一切悪びれずに手渡して来たのだ。
それもティーゲルが孤立無援で苦労するよう、副隊長の退勤後を狙って。
人が好いことで知られているティーゲルも
(いっそ暴力に打って出て、この男を分からせるべきだろうか?)
と束の間考えてしまったものの、彼が自分を敬えない気持ちも一応分からなくはない。あくまで一応だが。
「以後、他部署から受け取った書類や連絡事項は、すぐに連携してくれ。君も補佐官の自覚を持ってくれぐれも、漏れのないように」
彼にしては少しとげのある口調で、注意するに留めた。補佐官が少し怯む様子には留飲こそ下がったものの、自分が書類仕事に向いていない事実は変わらないので。
報告書を燃やして芋でも焼いてやろうか、とヤケクソ気味に考えつつ、気分転換のため執務室を出たところで、空腹を持て余すファリエを見かけたのだ。