いっそこのまま飛ぶ――無断欠勤後にフェードアウト退職という、クズの所業を決めようか。
自宅まで全速力で走って帰ったファリエは、靴も脱がずに玄関でのたうち回りながら、そんな誘惑に襲われていた。健康優良児なティーゲルの血をたっぷり無許可で吸った甲斐あり、元気が有り余っているのだ。
「最低……わたし最低……あんないい人に、なんてこと……ああああぁぁ」
抱えた頭を前後に激しく振りながら、涙声で
玄関で思う存分あがいた末、ようやく靴を脱ぎ、室内に上がった。のたうち回ったところで何かが好転するわけでもない、と思い至ったのだ。
そしてここで、自分がジャケットを執務室に忘れてきたうえ、着替えもせずに制服のまま帰宅したことに気付く。おまけに、白いシャツには小さな赤い染みが飛んでいた。
十中八九、ティーゲルの血であろう。
染みに気付くとまた、涙がこみあげて来る。たれ目がちの瞳から、今度は遠慮なしに涙をこぼした。きっと口の周りにも、血がこびり付いているはずだ。
自分のおぞましい姿を想像し、鳥肌も立つ。
だが鏡を見て確かめる勇気はなく、乱暴に服を脱いで放り投げ、そのまま浴室へ入った。
そしてシャワーを浴びながら、今後について改めて考える。
まず間違いなく、自警団はクビになるだろう。
現代社会において、人間の血を吸うことなど同胞もドン引きの、時代錯誤な鬼畜行為である。
また被害者であるティーゲルの慈悲によっては、回避の可能性もわずかに残っているが……一般常識に基づいて考えれば、逮捕待ったなしだ。
逮捕。
この結論に行きつき、温かいお湯を浴びているにもかかわらず寒気に襲われた。
今まで悪人を取り締まっていた自分が、まさか取り締まられる側になるだなんて。
(第三部隊の皆さんには、取り調べされたくないなぁ……)
これまでお世話になって来た分、自身の情けなさや申し訳なさで号泣してしまうだろう。可能であれば比較的関わり合いの薄い、第一か第五部隊の方に絞られたいところだ。
もしくはいっそ、総務部のどなたかでもいい。ついでに賞与を減額しないよう、懇願出来るかもしれない。
逮捕される前に実家まで逃げてしまおうか、とまた臆病な考えが首をもたげる。
吸血鬼のコミュニティに逃げ込めば、ひょっとするとうやむやに終わるかもしれない、と。その場のノリで生きている節がある吸血鬼たちは、同胞の出戻りにも非常に寛容なのだ。
が、慌てて首を振った。
ファリエは人間が好きだ。
より詳細に述べれば、人間の作った文化――特に料理が大好きなのだ。
幼い頃、家族旅行で人間の街を訪れて以来、吸血鬼の食生活とは全く異なる多様さにすっかり
そしてその好きが
だからこそ、彼らに迷惑をかけまくった挙句、何の後始末もせずに逃げるなどという選択肢は取れない。
シャワーを止め、脱衣所の棚からタオルを取り出す。
濡れそぼった髪を拭いながら、気持ちを固めた。
「まずはティーゲルさんに、ちゃんと謝らないと……」
そのまま逮捕コースが最も現実的であるが、無言で逃亡するより後悔は少ないだろう。きっと。
長々とシャワーに打たれたおかげで、雪のように白い肌もほんのり赤らんでいる。
また体と一緒に、心も少し温まったようだ。
普段は何でも悲観的に考えがちではあるものの、今はポカポカと全身が温かいからだろうか。若干ながらも、前向きになれた。
そのためファリエは次に、寝室に置いてある引き出しを漁った。お目当てはお気に入りのペンと、レターセットだ。
万が一逮捕を免れた際のため、退職願を書くことにしたのだ。
(クビになっちゃうなら、要らない気もするけれど……ううん、ご迷惑をかけたんだから。せめて何か、お詫びの気持ちは形にしよう)
ないよりはマシな、自身の誠意の証としたい。
ただ、退職する気など今夜までさらさらなかったため、ピンクと黄色のチェック柄という、妙に愛らしいレターセットにしたためる羽目となった。
後々この時の自分を思い返し、ファリエは「まだだいぶ混乱してたんだろうな」と感慨にふけるのであるが、それはまだ先のこと。
キュートな退職願を書き上げた後も、神経が
ぼんやりと居間のラグに横たわり、日の差さない北向きの窓を眺めていると、段々と空が白んで朝を迎えた。
ファリエは己を奮い立たせるべく、一つ深呼吸。
そして緩慢な動作で顔を洗って身支度をして、気持ちを落ち着けるべくお茶を一杯飲んで出勤する。鞄の中には、制服のシャツとスカートのみ突っ込んだ。退職願を出しつつ、ジャケットも回収できれば万々歳だ。
出来るだけ人目につかない内に、ティーゲルに謝りたかったので、普段よりもかなり前倒しでの出勤だ。それでも日光は天敵なので、日傘は欠かせない。
ニーマ市は中心部に市街地が広がり、その更に中央部分に自警団本部がある。
石造りの、日中なら絶えず誰かが出入りしている堅牢な本部も、今はほぼ無人だ。入口に、夜勤担当の団員が見張りで立っていたぐらいである。
彼らも早朝出勤のファリエを見つけて、一瞬不思議そうにしたものの、特段呼び止めることもせず笑顔で挨拶をしてくれた。それにぎこちなく、微笑み返す。
更衣室でシャツとスカートに着替え、とぼとぼと自身のオフィスへ向かうにつれ、昨日以上のめまいと吐き気に襲われつつあった。緊張と恐怖のためだろう。
だが、彼女が涙ぐんだりへたり込むよりも早く、第三部隊のオフィスから人が飛び出して来た。ティーゲルだ。昨日より一層ヨレた出で立ちになっているので、ひょっとすると泊まり込みだったのかもしれない。
ファリエがギクリと身を強張らせて、顔色を青くするべきか赤くするべきか迷っている内に、ティーゲルはパッと表情を明るくした。
「おはよう、ファリエ嬢!」
「ひぁっ?」
想定外の更に外からもたらされた笑顔に、ファリエが目を白黒させていると、快活な挨拶まで飛んで来る。
そして軽やかな足取りで、廊下に棒立ちのファリエの眼前まで駆け寄る。手には、彼が着るにはずいぶんと小さい制服のジャケットが。
「昨日はジャケットを忘れていただろう? 皺にならないよう、一応ハンガーに吊るしておいたんだが」
「あ、ありが、とう、ございま……」
手と声を小刻みに震わせながら、ファリエは怯えた目で彼を見上げた。
分からない。ティーゲルの考えていることが、全く分からない。
昨夜あんな目に遭ったのに、どうしていつも通り……いや、むしろ普段以上に元気なのだろう。
ひょっとして昨夜の吸血事件は、空腹のあまり自分の見た幻覚だったのだろうか、とファリエは一瞬考えたのだが。
(シャツの襟に、血痕残ってるよね……首も、うん、傷跡が……)
どう見ても事後である。自分がやったくせに、ファリエは涙ぐんだ。
だとすると、彼女を油断させて逮捕する気なのかもしれない。
せめてその前に退職願を渡そう、と肩にかけた鞄へ視線を向けた彼女の右手を、ティーゲルの両手が掴んだ。
(もう逮捕されちゃうのっ?)
ギョッとなって顔を戻すと、顔のいい上司が、更にいい表情でファリエを凝視している。なんだか視線も熱っぽい。
平素ならば思わずときめく状況だが、今は恐怖一色だ。
「あの、えっと……隊長……?」
「昨日の今日ですまないが、一つ、頼まれてくれないだろうか?」
「はい?」
首をひねったファリエの「はい?」は「どういう意味ですか?」の意図があったのだが、彼は額面通り「いいよ!」の意味で受け取ったらしく。
軽く息を吸って
「ありがとう! どうかもう一度、俺の血を吸ってくれ!」
熱烈に、こうのたもうた。
勢いに押されてのけぞりつつ、ファリエはある仮定にたどり着く。
(どうしよう……吸血したら、ティーゲルさんが馬鹿になっちゃった……わたし、変な病原菌持ってるのかな……?)
職場へ自首する前に、医療機関に行くべきだったのか、とまた震えた。