風邪で二日休み、昨日も誘拐騒ぎで一日休み。
不運が重なっての、三日ぶりの学校だったが、本日は最後の講義まで滞りなく進んだ。
幸いにして、深良の交友関係はそれなりに広い。レンタルショップでのアルバイトも、関係構築に一役買っている。
自由に使える金が乏しい大学生にとって、映画やドラマのレンタルは比較的安価な娯楽なのだ。在学生の利用客は多い。
休んだ講義のノートやプリントも、友人たちから首尾よく借り受けることが出来た。
──四十二番地にも、近々顔出さなきゃ。
図書館のコピー機にノートを読み込ませながら、そんなことも考える。
「新しい生活が落ち着くまでは、シフトも減らしておくよ。そっちに慣れたら、またバイトも頑張っておくれ」
気の良い女店長は、そんな言葉をかけてくれていた。
周囲の人から、ずいぶんと優しくしてもらえているな、と改めて実感する。自然と、口元もほころんだ。
「どうしたの、ニヤニヤして?」
ノートの持ち主の一人である兎獣人の女友達が、講義とは全く関係のない、恋愛小説を片手に顔を覗きこんで来た。大学図書館は、扱う蔵書の幅が意外と広い。
次いで、短い爪にチョコレート色のマニキュアを乗せた指先で、深良の指輪をツンツン突く。
「彼氏のことでも思い出してたんじゃないのー? 休んでたと思ったら、高そうな指輪まで貰っちゃって」
幸いにして、深良と仁八の誘拐騒動は学内に広まっていなかった。人気のない場所でさらわれたことと、藤田が大学側へかん口令を敷いたことが幸いしているらしい。
その事実を、深良は密かに喜ぶ。どんな内容にせよ、目立つことはあまり好きではない。
「違うって、誤解だから」
そんなことは
「そうじゃなくてね。皆に優しくしてもらって、嬉しいなぁって」
友人もいじくる手を止め、にこりと笑う。大きく長い白い耳も、それに合わせて小さく揺れた。
「お互いさまじゃん、こんなの。私がサボった時は、代わりに助けてよね」
「あ、サボるの前提なんだ」
「だって若いもん。若気が至るんだよ、色々と」
「何それ」
呆れつつ、笑う。
しかし胸中で、お互いさまか、と呟いた。
自分は典都へ何を返せるのだろうか、とも続けて考える。
報酬目当ての好意でないことは重々承知だが、報いることが出来るのであれば、行動したい。
そこでようやくノートと、講義で配られたプリントのコピーも終了した。
友人へ感謝と共に、それらを
「ありがとうございましたっ」
「どうも。字が汚いからって、文句言わないでよー」
照れ隠しの捨て台詞を残して、友人は図書館の螺旋階段をリズミカルに上がった。二階の雑誌コーナーで、今月号の『ナショナルジオグラフィック』を読んで帰るのだという。腐っても大学生ということか。
既に別の講義や、あるいはバイトへ赴いている友人たちには、後日返却する旨のメッセージを、携帯端末で送る。
皆「お互いさま、気にしないで」とは言ってくれたが、やはり彼らにもお礼をするべきだろう。
誰もがカロリーに飢えている貧乏学生なので、クッキーでも焼くことにした。
典都へのお礼は何にしようか、と続けて思案する。班内でキャンディやチョコを買っている、ということは、彼も甘いものは好きなのかもしれない。
──『カリオストロの城』を借りて、ミートボールのパスタを作るでしょ。で、マドレーヌでも焼こうかな。カリオストロ公国はたしか、フランス語を使ってたはずだし。
友人に配るものよりも、手の込んだものを作りたかった。
甘い香りのする計画を立てながら軽い足取りで、図書館の自動ドアをくぐった。
そこで深良は石と化した。目は点になる。
視線の先には、何故かモヒカン頭の獣人を土下座させている、典都の背中があったのだ。
二秒間、その広い背中を見つめ──気配と足音を消し、深良はゆっくりと後ろ歩きで図書館に戻る。
その動きのままホールの壁に背を預け、ずるずると腰を落とす。
理解の範疇を超えていた。
「なんなの、今の」
思わずひとりごちる。
典都が大学構内にいたのは、理解可能だ。彼には時間割も伝えている。
心配性の夫が、深良が連絡するよりも早く現地入りしていたとしても、想像の範囲内だ。
だが、あのモヒカンは誰なのか。以前に典都が数珠つなぎに連行した、万引きグループと似た出で立ちだった。
そしてその不良を、どうして正座させているのか。しかも大学で。
──うん。きっと見間違い。典都さんは花壇でも眺めているだけなんだ。突然の光の屈折で、コスモスとかそんな感じの秋の花が、偶然モヒカン男に見えただけ。
苦しすぎて呼吸困難になる言い訳を並べ立て、しかし身構えたまま、再び図書館を出た。
やっぱり典都は、モヒカンを土下座させている。おまけに二人に増えていた。
「何してるの!」
言いたいことはごまんとあるが、とりあえずはこれである。まだ人通りだって、結構──いや、かなりあるというのに。通りすがりの学生が、ちらちらこちらを伺っているのが、非常に恥ずかしい。
足を肩幅に広げ、腕を組んでいた典都が振り返った。怒っているわけでもなく、いつもの薄い表情のままなのが、今は少し不気味だ。
「君のことを嗅ぎまわっていたので、とりあえず捕まえた」
「え、あたし?」
モヒカンと自分を繋げる要素が見当たらなかったので、思わず面食らった。三人へ近付く歩調を抑え、少し距離を保ったまま伺う。
「別に悪さしようと思って、この子のこと、訊いてたわけじゃないんだよ……頼みがあったんだよ」
情けなくも緑の瞳に涙をたっぷりたたえ、モヒカンは湿った声を絞り出す。
隣の仲間も、弱々しく首肯。
「藤田のボンボンと、護花隊のブロッケンJr.を飼い慣らしてる女がいるって、ダチが言ってたから……」
「ぅぶふぅ」
場違いなのは自覚していたが、新たな典都の異名にたまらず笑いがこみ上げ、ついこぼれ出た。奇声となり。
言われてみれば、似ている。帽子で目元が隠れているわけでもないのに、全体的な風貌が似ている。また冷ややかで斜に構えた印象の割に、案外熱血漢な内面部分も類似している。
一方の典都は、やはり冷めた顔で土下座コンビを
「誰がベルリンの赤い雨だ。深良、肩が震えてるぞ」
ついでに深良へも、いつになく不機嫌な目を向ける。このあだ名を、本人は気に入っていないらしい。その割には、ブロッケンJr.の得意技も熟知しているようだが。
「ごめん、だって……」
それ以上は言葉もなく、口を押えてぷるぷる震え続ける妻に、典都はため息を漏らした。
諦めた様子で、再度モヒカンたちを見据える。
「しかし、お前たちの情報網だけは凄まじいな。テレパシーでも使えるのか?」
「使えねぇ──いえ、使えないです。使えたらもっと、羽振り良いです」
「で、妻に何の用だ?」
モヒカンの訴えをばっさり無視して、視線をなお鋭くする。
おののいた二人だったが、片割れが深良たちの指輪を目ざとく見つけた。
「えっ! あっ、二人、夫婦なの? どうやってだまくらかして……ってか、この子、前にパクられた時に見た、のっぺらぼうじゃねぇ?」
霊人の見分けが苦手らしく、今さら気付いたようだ。
「だったら尚更、頼んます!」
もう一人は声を張り、土下座を更に深くする。
結婚して以来、男を土下座させてばかりのような気がする。どんな星の巡り合わせだ。
「嘆願書、持って来たんです! 藤田のボンボンとか、護花隊の偉い人に渡してください!」
「嘆願書ですか……?」
オウム返しで深良は尋ねる。一介の大学生には、荷が重そうな委託物だ。
「はい! 隔離政策に反対の、嘆願書です!」