差し出された手に握られていたのは、いつかの夜、なくしてしまった腰帯だった。
それがなぜここに?
どうしてユイナが持っていたの?
持っていたとすれば、それはあの場にいたレンジュであるはず。
ユイナはきっと、レンジュから預かっただけなのだろう。これからはかすかにレンジュのにおいがするから……。
では彼はもしかして、あれからずっとこれを持っていてくれたというの? においが移るくらい、ずっとそばで?
どきん、と胸が鳴る。
自分の物が長く彼とともにあったと思うと、気恥ずかしさがこみ上げた。
差し出されるまま受けとった瞬間、ちりっと熱い、痺れるような痛みが指先に走る。裏を返してみて、そこに走った裂け目とにじんだ血の跡を目にした瞬間、ぎゅっと胸が縮んだ。
これはレンジュの血だ。
直感した瞬間、マテアは見えない何かに背を突かれたように走り出していた。
ああ、なぜ今まで思いつかなかったのだろう。レンジュは、あんなにも不義者であったわたしでも、命賭けて助けにきてくれる優しいひと。無事保護されたからと、一度も顔を見せないようなひとではない。
そして、先からの背筋を伝う冷や汗や、指先が痺れるほどの不安感。
レンジュに何かあったに違いないのに!
はたして予感は的中していた。
焼け残った資材や盗賊からとり戻した荷物などで作られた天幕の群れの中に一際おそろしさを感じる天幕があって、吸いよせられたように入り口をくぐる。大きめのランプを用いて照らされた内側では、すっかり血の気をなくし、敷物の上でぐったりと横になったレンジュの姿があった。
医師らしき男が脇腹にあてていた布をはがし、薬剤を塗布したものととりかえ、少女が枕元で額に浮き出る汗をぬぐっている。
己を冒し続ける苦痛にわずかばかり歪んだ面。呼吸は浅く、ごくたまに眉端がぴくりと反応する以外、なんの動きもない。
死んだように横たわるレンジュの姿を容易には受け入れることができず、マテアは天幕の入り口で立ち尽くした。
やがてマテアに気付いた少女が、無言で彼女の手を引いて自分が座っていた場所にマテアを誘導する。容器から水に浸してあった布をしぼってマテアの手に握らせた少女は、容器の水を脇の水瓶に捨て、新しい水をつぎ足すと、新たな水をくみに天幕から出て行く。
マテアは布を持つ手を膝にのせたまま、ぼんやりと、レンジュの面を覗きこんでいた。
気持ちが、なんだかふわふわとして、これが現実であるという気がしなかった。夢を見ているのだと思った。
燃える目をして自分を呼び、求め、逞しい腕で我が身ごと心を抱きしめ、恐怖を静めてくれた――あれは昨夜の出来事。
長らく外界と接触を断っていて、時間の感覚の失われていたマテアにとってはほんの数時間前の事のように思える。
そのレンジュが今死にかけているなんて……そんなことが、起こり得るのか。
にわかには信じ難い事だった。
だがレンジュは蒼白を越えていまや土気色の肌をしており、高熱にうなされ、汗をびっしりとかいていた。
そんなレンジュの体が小刻みに震えはじめる。
それと気付いた医師が、急いで左腕と上掛けの下の左足を押さえる。
『あなたも押さえてっ』
何事かを早口で言われた。とまどうマテアの前で、大きくレンジュの体がはねた。
『がああああああああーーーーっ!』
カッと目を見開き、狂ったように叫声を上げて手足をばたつかせる。医師の言葉の意味にようやく気付き、あわててマテアも医師に習ってレンジュの右腕右足を押さえこんだ。
『鍾乳洞にいた悪い菌が、傷口から侵入したのです……!』
医師が強く叫ぶ。マテアはレンジュの動きを押さえるため、全体重をレンジュの右半身にかける。
胸の中がぐちゃぐちゃになって、涙があふれた。
レンジュが……レンジュが……!
大声で泣きたい気持ちを奥歯を噛みしめることでどうにかこらえ、レンジュが再び昏睡に入るまで、彼の体を床に押し戻し続けた。
ふう、と医師が息を吐き出した。暴れた際にはがれ落ちた布を集め、新しい薬を塗った物をぺたぺたと肌に貼りつける。
そうする間、皮膚から吸収させるようなことを説明していたが、それが何を煎じた物かはマテアにはわからなかった。
鼻をすすりながら彼のまねをして手伝う。そして、脇に落ちていた布をとり上げ、雪の溶けた水に浸した後、額や首元、胸元に浮いた汗をぬぐっていった。
『傷自体、どれも深い。今夜が峠といったところでしょう。これ以上はわたしにもどうすることもできません』
申し訳なさそうにちらちらとマテアを盗み見て、ぼそぼそと独り言のように医師は告げる。
その歯切れの悪い口調と暗い表情から、医師が何か、絶望的なことを口にしたのだと悟って、マテアは布をにぎる手の力を強めた。
先の折り、天幕を出て行った少女が水瓶を手に戻ってきて、マテアの横に置く。少女が帰ってきたのも、そして医師のあとに続いて二人で天幕を出て行ったのも気付かず、マテアはレンジュの面を見つめていた。
レンジュが死ぬ。
苦悶すら浮かべなくなったレンジュの胸は、よくよく見ないとわからないくらい、呼吸による上下運動が小さくなっている。
これが止まれば、レンジュは死ぬ。
どうせ死ぬのであれば、早く楽にしてあげた方がいいのだろうか。
痺れた脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。
先のような彼は見たくなかった。マテアのこともわからず、自分が何をしているかも把握できず、ただ狂人のように喚いて暴れて……。
今のレンジュであれば、マテアでも殺せる。手にしている布を口と鼻にかぶせるだけで、簡単にレンジュは死んでしまうだろう。
レンジュが、死ぬ。
二度と目を開かず、口もきかない。それはすなわち、マテアを見ることも名を呼ぶこともないということ。あの、照れたような笑みを浮かべることも、燃える眼差しで見ることもなく、この身が燃え尽きてしまいそうなほど抱きしめられることもなくなるということ……。
そこまで考えて、マテアの思考は完全に真っ白になった。
何も考えられず、レンジュの面を覗きこんだままの姿勢で固まっていた。
『ルキシュ、替わるわ』
唐突に耳元で声がして、びくりと身を震わせる。首だけで振り向くと、目を赤くしたユイナと、ユイナの想い人がそこにいた。
『少し休んで……あなたまで倒れてしまったら、それこそレンジュは不本意でしょうから』
レンジュの傷に障らないよう、ぼそぼそと囁かれる。袖端をとられ、立つようにと引かれ背を押されてようやくユイナが交替を申し出てくれているのだと察したマテアは、感覚の失われた足でよろよろと立ち上がり、無言で天幕を後にした。