夜明け近く、マテアは血痕を追ってきた隊の者によって発見された。
そのとき彼女は一人で、まるで彫像のように身じろぎせず雪の上に座していたという。
盗賊団首領・イルクの行方について訊いてみたが、もとより言葉の通じない彼女から何を聞き出せるわけもなく。知らせを受けて迎えにきたユイナに手を引かれて、隊まで連れ戻された。
不思議なことにイルクの物と思われる着衣一式が近くの雪上に落ちていたが、そこから立ち去った足跡はなく、このことに関して満足に説明できる者はいなかった。
ただし、衣服にはレンジュの報告通り左腹部に真新しい剣による裂け跡があり、大量の出血も雪上にみられることから、イルクの死はほぼ確定的とみられる。
それが、隊の出した結論だった。
ユイナに肩を抱かれて隊に帰りつくまでの記憶が、マテアにはなかった。
気付けば馬車の荷台に天幕を縫いあわせて作ったほろを被せただけの中に、毛布にくるまれて座っている。ふくらはぎの傷もあらためて手当てをされて、体中のすり傷に軟膏をぬりこまれていた。
『ルキシュ、あなた本当に大丈夫なの? 顔色が悪いわ』
夕刻、食事を運んできたユイナが心配そうに覗きこみ、何度も訊いてきたけれど、とても疲れていて、応じる気になれなかった。
外界から隔離された荷馬車の中にいてもただよってくる、表の死臭に頭が重くふさがれ、ずっと気分が優れない。
外はずっと騒がしく、カラカラと車輪の回る音と、ざくざく土を掘る音があちこちでしていた。同じ調子でぶつぶつとつぶやき続ける長い声は、祈りのように思えて、マテアもそっと、いくつかの詩篇を口ずさんだ。
月光界に帰りたい……。
焼けつくように、そればかりを願う。
その思いはこれまでも常にマテアの中にあった。
心許せる友がいて。創世神リイアムとリオラムに仕え、その慈愛の光を受けながら祈りを捧げるだけで過ぎていた、平穏な日々。一喜一憂はあれど、自分で自分の心が把握できないほど乱れることはなかった。
ここへ来て、まだひと月にも満たない。
月光界で生きてきた年月と比べ、ほんのわずかな日数でしかないというのに、自分は何かが変わってしまった。今ではもう、完全に自分を理解しているとは言いきれない。月光界にあったときの自分が、自分を完全に理解していたとも……。
自身の内側で沸き起こる、説明のつかない感情に気付くたび、月光界が遠ざかる気がした。
言葉にならない怒りと、やり場のない悲しみと。胸の奥底から沸き立つ喜び。こんな感情があるなんて、知らなかった。
あの頃の自分と今の自分は全く違う。違ってしまった自分はもはや、とり返しがつかないほど変わってしまっているのかもしれないと思うと、おそろしさに心がすくんだ。
リウトは、干渉されると言った。人の中に入った<
だがそれは、もしかすると肉体だけの話ではないかもしれない。心も影響を受けるのかも……。
この感情ははじめから自分の中にあったのか、それともレンジュから伝わってきたものか。突き詰めるのはこわかった。
だって、自分のであったなら、どうすればいい? こんな……自分自身すら、持てあますものを。
こんな感情を生んでしまった自分に、はたして月光界へ戻る資格はあるのだろうか?
まだ、間にあうかもしれない。
まだ、帰れるかもしれない。
けれども、そのために必要不可欠なことを、自分はまだしていなかった。
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そのためには、レンジュを殺さなくてはならないこと。
「……レンジュを、殺す……?」
声に出してつぶやく。直後、鳥肌を立てながら背筋をかけあがっていった、自分自身をばらばらにしてしまいそうな寒気に自らを抱きしめ、マテアは唐突に現実へと意識を戻した。
いつの問に夜がきたのか、周囲は真っ暗で自分の手元も見えない。前方に手を伸ばしてみたけれど、何も触れるものはなかった。
虫の音すらしない静寂に、ふいに、自分のいるこの荷馬車だけが世界から隔絶された空間にあるような気がして、おちつかない気分になる。そもそも、あれからどのくらい経ったのか。これがはじめて訪れた夜なのか、それすら確証がもてない。もしかすると、何日か経過しているのかも……。
胸が、なぜだかどきどきした。緊張に指先まで冷たくなり、妙に不安で息苦しい。自分を包む空気が圧迫してくるよう。
外へ出て、月光を浴びたら少しはましになるかもしれない。
そう思い立ち、手探りで仕切り布を探し、めくり上げて外へ出たとき。
ユイナが今にも泣きだしそうな顔をして、とぼとぼと歩いてくるのが見えて、マテアはかけ寄った。
「どうしたの? 何か、あった?」
『ルキシュ……』
名を呼んだだけで、口ごもってしまう。
変だわ。彼女がこんな顔を見せるなんて。
胸が、荷馬車の中にいたときよりもさらに強く締めつけられた。不吉な風が、ざわざわと足元の草を揺らす。
ざわざわと、ざわざわと。
心がけばだつ。
『ルキシュ……。レンジュがね、これをあなたに、って……』