月を恋い、啼くけもの。 4

 聞き覚えのない、低い声だった。


 氷とも刃とも思えるその冷やかな響きの中に感情はなく、この状況下においてはゼクロスに残酷な未来を想像させずにはおれない。


 ゼクロスは、すぐ目の横で、恐怖におびえる自身の横顔を映した剣に、ごくりと大きな音をさせて息を飲みこんだ。


『た、たす、け……』


 カラカラに喉が干からびて、それ以上言葉が続かなかった。体中の毛穴という毛穴が開き、汗がどっと噴き出す。


 覆面の男が誰か、彼は気付いていた。

 絶望という闇が、今しもゼクロスを飲みこもうとしていた。


『おやおや、震えているのか。ひと一倍でかい図体をしながら、剣一本でそのざまとはな。

 よくもそれでおれの邪魔をしようなど、思いついたものだ。それとも――』


 男は腰を折り、ゼクロスの耳元近くまで唇を近付ける。


『気付かれずに逃げおおせると、本気で考えていたとか?』


 声はささやきほどに小さなものだったが、洞窟内で反響し、マテアの耳にも届く。直後、ゼクロスは地面に突っ伏した。


『たっ、助けてくださいっ! ほんの出来心だったんです! すいませんでした! もう二度としませんから、どうか許してくださいっ!』


 じりじりと向きを変え、男の靴先に額をこすりつけて必死にわめく。


 マテアは、震えて小さくなっているゼクロスの変わりようにひどく驚き、一体この者の何がそうさせるのかと、覆面の男を見上げる。彼女の前、覆面の男はゼクロスの丸まった背に蹴りを入れるように片足を乗せた。


『まさか成功すると思っていたはずはないよなあ。おれが見てなかったと思うか? きさまが部下を切り殺すのを。しかも女に夢中になって無防備だった背後から。

 そんな卑怯者を放っておくわけにはいかないというのは、おれじゃなくとも思うことだ。つまりおまえは、そう思われてもいいと考えたってことだな』


 とても本気とは思えない、ただただゼクロスをもっと追いつめてやりたいだけとわかる声で、男は楽しげに告げる。

 そうしてさんざんいたぶった後、足を下ろし、背後に控えた部下たちに向け、ぴしりと指を鳴らした。

 途端、待ってましたとばかりにわらわらと入り口の方から男たちが現れる。


『連れて行け。ブタだ』

『……ひっ、ひいいいいーーっ!!』


 覆面の男の言葉を聞いて、ゼクロスは何かを悟ったように絶叫し、部下たちは歓声を上げた。


『いっ、いやだっ、それだけはっっ! た、助けて……ころしてくれえっっ』


 片腕に二人ずつ、四人の男ががっちりと押さえ込み、ゼクロスを引きずって行く。目尻が切れるほど目をむき、大声でわめいて子どものように暴れるゼクロスに、並ならぬ恐怖が彼を襲っていることを知って、マテアも言葉をなくした。


 遠ざかっていく、生涯耳から離れなくなりそうなおそろしい絶叫に被り布の下で耳をふさぎ、四肢を縮め、次は自分の番だとがたがた震える。


 ――助けてレンジュ!!


 心臓が張り裂けそうなマテアの願いもむなしく、被り布は覆面の男の手によってはぎとられた。

 彼女を見た男がそのときもらした言葉は。


「……まさか。月光聖女か……?」


 この世界ではじめて耳にした、月光界の言葉だった。