月を恋い、啼くけもの。 3

 自ら思った言葉に、マテアは驚いた。


 もう一度見て、それが確かに雪であることを確認する。

 よくよく考えてみたなら、洞窟内で炎がこんな近くにあるわりに、周りの空気はそれほど熱くなっていなかった。微風にパチパチとはぜる火を越えたりくぐったりして届く風は熱を帯びてはいるけれども、その他の部分から届く夜風は冷えている。暖かい風と冷たい風が混じりあったここの空気はぬるめで、だからこそ、肺がただれるような思いをせずにすんでいるのだろう。


 けれども昼に休憩をとった所に雪はなかった。


 北風が吹き、人々は寒そうに白い息を吐いて厚着をし、肌を露出しないようにしていたけれど、雪は降っていなかった。

 雪で白くけぶっていたのは、東方に見えていた山稜だ。


 ではここは、その山の一つなのだろうか?


 そこまではわからなかったが、雪があるのなら、隊まで足跡をたどればいいはずだとの妙案が浮かんだ。足跡が消えてしまっていても、おそらく西へ向かえば隊の進んでいた道に出られるはず。


 見えた希望に、少し力が戻った。

 残りの問題は、どうやってこの洞窟を出るかだ。

 火と男。どちらもマテアにはおそろしく、身がすくむ。


 なにか手はないかと考えを巡らせるうち、アネサがくれた黒い粒のことを思いだした。

 服の内ポケットに入れておいたそれが、落ちずにちゃんと入っているか、心配になって手で探る。ポケットは上の口が開きっぱなしであるため、懸念していたように、担がれて運ばれているうちに半数がこぼれてなくなっていた。


 だが、まだ三つある。


 アネサは、これを飲ませるとよく眠ると言っていた。それは、三つでも足りるのだろうか? レンジュより二まわりは大きいこの男に、はたしてこんな小さな粒が三つで効くのか……。

 わからないけれど、やってみなくては。


 男は身じろぎ一つせずに、ずっと焚き火の方を向いている。横顔をうかがいながら、男の荷物へ少しずつ少しずつ移動した。革袋製の水筒に手掛けたところで、このまま水に混ぜても底に沈んでしまうことに気付く。


 音がしないよう細心の注意を払って手近な小石を用いて少しずつすり潰し、その粉を、水筒の口から中へ入れようとしたときだ。


『んなとこでコソコソ何してやがる!』


 突然男の声がして、これ以上ないほど緊張していたマテアは反射的、びくっと手を引き戻してしまい、水筒を指先に引っかけて倒してしまった。

 倒れた水筒は口から水をトクトクこぼして、岩の間に染みていく。

 当初はマテアが水を飲みたがっていたのだとばかり思ったゼクロスだったが、後ろ暗い思いの現れのように、背後に両手をかばうようなマテアの動きの不自然さが目につく。

 何かあると直感的に見抜いて、両手を前に引っ張り出させた。


『なんだよこれぁ!! ああっ?』


 骨が折れるのではと思うくらい、強く手首を握りこまれた。

 激痛に、感覚を失ったマテアの手が開く。ほとんど指の間からこぼれてしまっていたが、掌に少量残ったのを指先につけ、なめたゼクロスは、その独特の渋みからそれがクツの実であることを知って、激高した。


『きさまっ、おれさまを眠らせて、逃げるつもりでいやがったなっ!!』

「あっ……」


 突き飛ばされ、岩壁に後頭部と背中を強くぶつけたマテアの視界がぐらりと回転する。


『言ってやっただろうが! これはおまえのためでもあるんだと! それ、を――……』


 声が、なぜか急速に小さくなって、弱々しくかすれた。

 横倒れになって痛みに堪えていたマテアが薄目を開けてそちらを見ると、そこには眉一つ動かせなくなっているゼクロスと、彼の背後に立って剣を突きつける者がいた。




 いつの間にここまで近付いていたのか……剣はゼクロスの喉横すれすれに触れている。角度から推測して、少しでも動いたなら即座に殺すと脅しているのだろう。


 それがただの脅しでないのは、剣を持つ手がわずかの震えも発していないことからうかがい知れた。


 おそらくゼクロスが抵抗を素振りでも見せたなら、剣は首を傷つける。猪首であるゼクロスの首がそう簡単に切り落とされるわけはないが、動脈を切断されればものの数秒で絶命するだろう。


 剣の持ち主は、黒布で顔を隠していた。

 頭にはターバンを巻き、両目以外で露出しているものといえば、布の隙間からわずかにもれた前髪と額だけだ。


 揺れる視界の中、マテアは最初のうちこそレンジュが助けにきてくれたものとばかり思っていたが、布の下から発せられた声に、彼とは別人であることを知った。


『捜したぞ。こんな所に隠れていたのか』